覚者591

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第四の巻
           来世の巻                                    其の142
    第三     無言詞界について
     五     善悪の区別                                      其2                 
             リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 例へば人の苦しみを見て是を救いやらんと思う心は気光素に合い、然して是を救う方法として光気素を用ゆる時その破壊に合う光気素は即ち気光素より出でたる方法なれば是両者一体にして帰する所は救うと云う慈悲に合う。故に結果は賞となる。是に反し彼を亡ぼさんとしての考へならば其は破壊にしてたとえ気光素の法を用ゆるとも結果に於て全く破壊に帰するが故に是は罰となる如きを云うなり。所謂組織せんがための破壊と破壊せんが為の組織とにはかくも相違あることをよくよく認識して修養修行せんことを要す。
 世の中の修験者の中に用いられ居る「呪詛の祈祷」又は「助けの祈祷」など称して行い居るを我等は知る。彼等は人を助けんとして祈り又は呪わんとしての祈り、此方法は帰するところ神とか仏とかに祈って目的を達せんとするなり。此事柄を汝等如何に考うるや。神の心は慈悲なりとせば救い助くるには通ずれども、呪い倒さんとなすは神の心に合わざる行いとならん。然るに修験者はかく祈りを敢てなすは何に祈り、何に願うやを汝等考へしこともあらざるべし。神の心に反する行いをなして神が其れをきき届けて呪わしむる事をなさざるならば神を祈るも詮なき事にてはあらざるか。修験者に云はしむれば「神を祈るにあらず悪魔鬼神を祈るなり」と称しおるもあるなり。汝等の世界にはかくも不自然なる行いをなすものを信じて迷い居るものすくなからず。其は原理を否道理をわきまへず、又正しき自然の善悪を知らざるが故に斯ることに迷信するなり。慎むべきことにこそ。
 斯る事柄を信ずる汝等は云うならん。「行者は行いをなしてその結果或は救い或は倒すにてはあらざるか。そは神にあらざればなしがたきことなりと思うが如何に」と。汝等の智慧はかくもうすし。そは他ならず、行者が行う祈りの法とは神には全く関係あらざるなり。唯彼等は光気素の法に合う行いにて人を倒し又気光素の法にて人を救うにすぎず。所謂彼等が行じたる行いによって機械が運転なしたるにすぎざるなり。例へば電力にてものを破壊し又組織すると同様にて神のあづかり知る所にはあらざるなり。神は此法則を自然にそなへをきたるを行者が利用して或は組織に或は破壊に応用したるなりと考うれば斯るものに信仰をおきて悪戯なる彼等が悪手に陥るは是迷いに他ならず、薬品には毒を用いて薬と変ぜしめ薬を用いて毒と変ぜしむるを同様の結果にて良薬も度をすぐれば身体を傷くると考うれば薬は神の造りしものにて、其用法の如何によって助けともなり亡びともならん。されば自然はかくも範囲広くしてあやまてば斯る間違いを生ずる事少なからず。天の自然に従へば毒も薬に薬も毒になさしむる道理あるが故に是をよくわきまへて塩梅せざるべからす。汝等が思う自然と神の定め給いし自然とには斯くも隔りある事を認識して信仰を正しくせざれば迷いは永久に尽ざるべし。

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