覚者慈音590   三世と四世論   無言詞界について   セイキョウ貴尊講述

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第四の巻
           来世の巻                                    其の141
    第三     無言詞界について
     五     善悪の区別                                      其1                 
             リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 聊か枝葉にわたりたる問題なれど修行するものの為に少しく語りおくの必要あるが故に掲示しおくべし。
 魂魄霊一体化するを得ば善悪を区別する要もなけれど修行修養なすものには知りおくべき必要もあらん。汝等が考へ居る善悪はみな其々理屈に走りて何れを善とし何れを悪とするすら迷うならん。昨日迄善事として行い来りたる事柄も今日は悪なりとして是を放棄する如き、そは善にも悪にもあらざるべし。
 今我等が語らんとする善悪とは所謂神の作りし自然の法則より考察して自然に反するを悪とし自然に順ずるを善として説明せんとするなり。汝等現在生活なし居る姿を見るにその大部分は不自然なるが故に是は悪の部に属す。大凡九流界以上の人類は肉体を機械として魂に重点をおきあるがゆえに自然の法則に合う。故に是を善と説明せんとするなり。
 例へば汝に悪心おこらば他を傷くる事を企つ。是即ち破壊なるが故に光気素のはたらきをなす。是悪行なり。是と反対に善心起らば他を救わんとの慈悲心と化するに依て是は気光素の組織的はたらきと化す。故に是は善行なるべし。然りとせば悪行は破壊なるが故に光気素となり、善行は組織なるが故に気光素と変ず。是によって観察すれば破壊の気光素は悪の部類に属し、組織の気光素は善行の部に属すとの結論に達する事を得るならん。ここに此両者即ち光気素気光素全く一体化してはじめて無善無悪の境涯に到達してここに始めて神通力となる。是即ち神の造りし自然の法則なりと思いて修行修養せんことを望む。汝等の考うる所の善悪とはよき行いと悪しき行いとの区別定まらざるが故にややもすれば善なりと思いて悪行を敢てし、悪行と思いてなせし事は案外善事となる場合も見らるる事多し。然して善事は賞せられ悪事は罰せらるると考うる故にここに神より賞罰両道の事柄も従って脳裏に刻みつけられて為に正しき善悪を感受する事を得ざるなり。善行は賞せられ悪行は罰せらるるとの考へを先づはなれて工夫せざれば正しく自然には順ずることを得ざるなり。
 すべて汝等の考へはあやまれるに依って悪行を犯すものがある場合賞を受くることありとするならば、汝等は悪をなしても賞を受け善行を営みても罰を受くる如き事を見れば、全く天の自然は矛盾なしたるものとして却って神をおろそかにする傾向もあらん。
 例へば汝等が目に映る善人は苦しき生活を営み悪人と見るものは栄え居るを見ては神など世の中にあるべき事なしなど思い居るもの少なからずあるを我等は知る。斯る事はすべて人間界の不自然なる生活より推測する事柄にて天の自然に合わざる考へなれば深く是を思慮分別して正しき自然により考察し見ば善悪の結果に於て受くる賞罰も従って判明するならんと思いて深く研究せざるべからず。人を救い世を救う道は即ち天の理に合わしめずば正しからず。

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