覚者慈音586    三世と四世論    無言詞界について

           三世と四世論
           未知日記第八巻
           第四の巻
           来世の巻                                    其の137
    第三     無言詞界について
     三     生のはたらきと生の力                        其1                 
             リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 霊には霊のはたらきと霊の力あり。魂魄又然り。心意は魂魄より生ずるはたらきと力にて生じたることは汝等も既に知るところ即ち肉体を有するが故に魂魄は脳にはたらきて心意を現はし、そのはたらきとその力が身体を脳に依て支配なし居れど身体が生のはたらきと生の力を失う時、ここに心意の必要はあらずして魂魄が次の段階に移さるる結果はしめて新しき階が出現なすことは既に説きつくしたれば汝等も認識なし居ることと承知す。然るに汝等は心意にのみ重点をおきて日々の生活をなし居る為魂魄は霊に背をむけて心意にのみ囚はれ居るがため肉体滅すれば心意の要なく、己がはたらきを何処におくかに迷うため浮住界を度脱する力なくさ迷いて己が行くべき処を知らず、己がなすべき事すら知らずして度脱することを得ざるも亦是非もなきことなり。然らば魂魄は浮住界を度脱せんとして肉体滅後霊に従いて更に修行せざれば目的を達することを得ざるべし。そは稔らざるが故なり。肉体を有する間によく稔らせおきたらば霊と結合して完全なる結果を得るによって肉体を放棄すとも迷はず上昇することを得るは是道理なるべし。汝等然とは考へざるか。
 総じて限度を有する生は死を伴う。されど限度を有せざる生には死と云うものはあらざるべし。所謂生より生と限度なく継続なしつつあるによって宇宙の本源は永久不変なり。その不変の生とは唯宇宙の本源にのみ帰するか。もし然りとならば人は生死を伴はざる生に入らんとせば即ち宇宙の本源に立ち返らざるべからず。宇宙の本源に立ちかへるものは限度を有する肉体にありては到底宿望を達するを得ざるべし。限度を有せざるは肉体にあらずして魂魄霊ならでは目的の本源にかへる事難しとの理論は成立するならん。先に述べたる如く人間の姿は宇宙を縮小したる姿なりと説明しおきたる理も是によって察するを得べし。霊より魂魄、魂魄より心意と組織され心意は肉体をはたらかす動力と見なさば肉体のはたらき静止すれば従って心意の要なければ共に消滅するも理なるべし。魂魄は心意を支配する必要なきに至らば止むなく霊に帰するの他なからん。

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