覚者慈音574

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第四の巻
           来世の巻                                    其の125
    第二      天界と地界の関係

     一     相対と複相対        その1                                 
             リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 大凡天界と名づけ又地界と名づくるもすべては言葉にすぎず。言葉は如何なるものに対してもみな相対にして絶対にあらず。何となれば自より他に知らしむる方便なるが故に相対にして絶対の言葉と云うものはあらざるなり。所謂自他の関係ありて是に通せしめんがために用ゆる符号なればすべては絶対とは云い難からん。自他共通の符号なれば言葉には絶対と云うことはあらじ。天界あれば他界ありと云うも是又相対なるべし。例へば絶対と云う言葉もその声より更に分るれば相対となり、逆に帰すれば絶々対と名づくるも皆相対性の関係あるによってなるべし。我より彼に伝へ彼より我に語らんとなす用語なれば言葉には自他の関係あるによって絶対とは云い難し。ここに考うべき事は言葉なき境地に達せずば絶対とは云い難しとの意味を先づ汝等は知りをく必要あらん。
 天と云い地と云い或は人と云うも凡ては相対なり。天と地は高き低きを現はし天をたかしと思い地を低きと考うれば是即ち距離となるべし。されば天地一体化してここに距離なしとせばその結果は如何になるかとの悟りを得ざるべからず。天と地の中間に人を置くと考うるとき天人地即ち汝等が称へ居る三才論は如何にと云うに天と人、人と地是複相対となるなり。即ち三段論法は複相対となる。天と人人と地地と天是複相対にして此うち一方を外せば相対となる。この関係より人間が地界を離れての後は天と人との関係も生ずるならん。さすれば地界を離るれば天と人との相対となり、又天界に到らずば人と地の関係となりてここに地と人との相対と変化するに到らん。然りとせば人を中心として考うれば天地の関係は成立する如く考へらるれどそは人を中心として考うる故にかかる誤信を抱くなるべし。是即ち迷いなり。天人地を不可分関係として考うれば此三才は一体化するを以て三才一体となりて汝等が思う如く絶対の境地となると考へなば其も亦誤認なり。汝等滅後に於て極楽に至るとか或は地獄におつるとか考うるは宇宙の原理を適確に認識するを得ずして相対性観念を離れざるが故にかかる迷いを生ずるなり。されば天国とか或は地国とか云う言葉をとり外して考へ見よ。然る時はその答へは如何になるか。即ち無の境涯となるとの結論を得て此処に又新しき迷いを生ずるならん。故に天と思うも地と考うるも亦天地なしと考うるもすべては迷いに他ならず。されば是を言葉によって説明することの不可能なることも推して知ることを得ん。汝等迷うこと勿れ。我等が汝等に語らんとする処の大要はここに存す。我等と汝等、汝等と我等の関係を相対とみなさずして是を言葉なきものと見なして深く思惟し見よ。言葉は符号にして不完全なれど我等が語る言葉なき言葉によって汝等を導かんとなすも実はここに大なる意味を有すと知りて我等と汝等はすべて言葉なくして相通ずると考へなば我等の意志は完全に汝等に通ずるなり。然るに汝等は我等の意中をくみとることあたはずして何か言葉によって求めんと計るが故にここに有無の相対性となりて汝等が意中に深く徹底することを得ざるなり。故に今後は無言詞の教へをうくると考へて修養することを要す。言葉に依って求めんとするは小智にすぎず。
 大凡大智を得んとならば言葉をすてよ。さりながら言葉なくしては汝等に通ぜざるべし。今、汝が認め居るは唯後輩者を導く一つの方便、符号にして完全無欠のものにあらざる事もここに考へをきて然るべし。我等が汝等をして後世到らしめんと計る処は即ち大源界(仮称)或は無言詞界の境地に誘はんとするを目的となし居るなり。

 大凡天界に到らば或は地界におつる憂もあらん。又地界に落るも天界に昇る喜びもあらん。かかる境地に永住なすことは汝等も好まざるべし。昇ればおつる憂あり。おつれば上る喜びもあらん。されどかかる境涯にて或は上り或は落ることを屡々繰り返へすならばそは全く安全にあらず。上る喜びもなくおつる憂もなき境涯に入りてこそ真の安全は保たるるなり。相対の世界或は複相対の世界にはかかる悲しみと喜びとの対立となり、又絶対の境地に到るも絶対これ無限にあらず。絶対あるが故に相対は生ずるならん。然る時は絶対と云うも是又真の絶対にあらざるべし。汝等光明論によりて此理は知る事を得たるならんと我等は考うるなり。故に詳細は省略す。


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