覚者慈音567  三世と四世論  善行と悪行について  セイキョウ貴尊講義

  

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第四の巻
           来世の巻                                               其の118
     三     善行と悪行                                 
             リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 汝等が世界にはかく宗教ありてその教へに基きて修行修養なしたるものの行動は或は善行或は悪行と区分せられてその両者が汝等が滅後に於て伝説或は文字によって後世に伝はりあるによって、彼は善者或は悪者とその行いが残存して伝説文書の消滅せざる以上その行いは残存するのみ。其は後世の手本となるにて謂はば形の上に否汝等が世界に残れど天界には何等の影響はあらざるなり。是を宗教者に云はしむれば教祖は永久死せずして尚此世に存在すと説き居れど帰する処はその行いの善悪は残り居るにて彼の霊魂は世上に残り居るとは考へ難し。所謂悪名を残し或は善名を残すも是を汝等が世界にのみ、否汝等か修行修養の資料に残るにすぎざるならん。汝等悪行を残して人の爪弾きとならば下界に於ての罪は永久人身と共に地上に残る結果とならん。同じ残すならば汝等が世界の約束に基きて善行を止めて美名を永久人の脳裏に止めては如何に。余事はとにかく善行悪行とはかかるものにして汝等が思う善悪両行は宗教者が考案したる法に基きたるものなれば善行と思うことも神の眼より否神の道より考うる時、或は悪行と見らるることもあり、又悪行も善行と見なさるることあるは是正しき善行悪行にあらざる事も推して知ることを得ん。
 大凡人類間の約束には人類の平和を乱す事を悪行となし人類を平和ならしむる事を善行と思い、是を広く一般に伝へてながく人類の生活を安全ならしめんとはかるは、是神の御心に合いたる教へには相違なけれど、ややもすれば人類間に於て都合あしければその法則(おきて)を変更して昨日迄の善行は今日の悪行となる如きこと屡々あるによって何れを是とし、何れを非とするやに迷うこと多からん。神の道の伝うる処には一度是を伝うれば決して再び他の事をなせよと教ゆる事はなさざるなり。人類の教へと神の教へには相似て等しからざる事柄に於てかくも相違あるなり。神は正しき道を伝へたるに不拘人類は是を自己の心に照して都合あしければ変更して神の教へに違背するが故に人類の幸福は得られざるなり。
 神の法は一見窮屈に感じらるれど其は人類は勝手きままの行動をなすがために心ゆるみて是を守るは難く感ずるのみにて決して窮屈なるものにあらず。一旦此道につけば安らかに然も安心して歩むことを得るなり。汝等五戒すら保つことを得ざるは何によるかを考へ見よ。即ち自己本位自己中心より守る事を好まざるならん。己自らさへ安全ならば他は如何になるもよしとの考へより五戒すら保つ事を得ざるなり。他を思い又己を思はばかかる微々たる事は訳もなく行はるる事にて決して不自由窮屈なるものにてはあらざるべし。善行悪行はかくの如きものにて神の法にさへ従い居らばそは神にのみ通ずるにて即ち善悪の区はあらざるなり。故に道は一路なりと考へて可ならん。



註 五戒とは
仏教における在家信者が保つべき5つの戒めの徳目。五学処ともいわれる。殺生すなわち殺すこと。偸盗 (ちゅうとう) すなわち盗むこと。邪淫 (じゃいん) すなわちよこしまな性関係を結ぶこと。妄語 (もうご) すなわち嘘をつくこと。飲酒。以上の5つをしてはならない,と戒めるもの。 (ネットより転用)

×

非ログインユーザーとして返信する