覚者慈音563  三世と四世論  来世と天界の区別  セイキョウ貴尊講義

           三世と四世論
           未知日記第八巻
           第四の巻
           来世の巻        其の115
        テッシン はしがき

        来世と天界の区別について                                                                             リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 リョウジャ.セイキヨウ、此篇を講ずるにあたり天界の巻となさんとありたるに対し、我、テッシン聊か考うるところありて、セイキョウに対し此篇を来世の巻となさば如何にと注意なしたるに彼、尤もなりとして斯くははからいたり。是に対し汝等は天界の巻とあらんことを望むならん。現在汝等の世界を観望するに従来より習慣づけられたる宗教上の見地より見る時天界の巻となす時は直ちに神の世界或は極楽を連想して人命終らば直ちに此界におさまりて永遠の楽しみを味うことのみ慮って其がために修養修行の道をおろそかにせんことあらんやもはかられず、故に我等は是を憂慮して来世の巻と命名したるなり。
 天界の巻と命名なさば汝等は確定信仰を考うれど来世の巻とならば不確定信仰となるによって修養をおろそかにはなさざるべし。人一度死して天界に或は極楽に往生すると確定せば善悪邪正の区を考へず何れにもせよ、滅すれば天界に至ると思はばあやまりとなりて滅後の苦患を新にせば悔ゆるも甲斐なき結果となる。実に怖ろしき事ならずや。汝等は天界と云へば直ちに神の世界或は極楽とのみ思はばそは認識をあやまりたるなり。汝等の思いは地獄は苦界にて極楽は楽界なりと考うるはあやまりなり。天界にも苦界あり、楽界あり、是は後にセイキョウが詳細語る故に我は唯この題名に対し不確定の意味にて来世の巻となせよと注意したるにすぎず。よってここに一言以て汝等に示しおかん。されど是を諒とせよ。




      来世の巻
    来世と天界の区別について
    一 来世の意義
              其の1

 


 貴尊の注意によって来世の巻と標題して先づ来世の意義より説明することとせん。即ち来世とは未来の変化を語るなり。事新しく述ぶるの必要なけれど汝等が住める世界も天界なり。決して他界と考うること勿れ。来世とは所謂今日ありての明日ならん。換言すれば未来より未来への順路にして事新しく来世と語るに及ぶまじ。又改めて天界として説くの必要もなかるべし。すべては言葉のあやにして帰するところは空より空の道に他ならずと思はば可ならん。明日をも知らざる人間に対して明日の様を教へんがための方便として我等が辿りし実際を、汝等に教へんがために用いたる一種の言葉として聞かば其にて事足る。人間界に住居してその役目を果したるのちを来世とは云うなり。たとえ人間の肉体を有するとも既に人間の人間としての分野を修めたるものは肉体の有無に不拘来世に入るは是又順路一つの階段を上りたるなりと考へなば可なり。所謂三才の翁なるによって肉体を有するとも来世に一歩を印することを得るなり。されば汝等肉体を有する間に早く来世に居をかへんことを願うべし。其は敢て難きことにはあらざるなり。肉体つきても尚来世に居をうつす人は稀なり。然るを汝等は肉体をすてたる後ならでは来世はあらじと考うるは大なるあやまちなる考へなれば、ここに認識を新たにして修養せざるべからず。

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