覚者慈音562

              三世と四世論
           未知日記第八巻
           第三の巻
           未来の巻        其の114
  第十五      霊智を求めて確定信仰を得よ                           其の1                                           リョウジャ.セイキョウ貴尊講述



 人間はとかく頭にのみ重点をおきて頭脳明晰なれば彼は智者なりと。然らずば彼は愚者なりと。すべてを脳のはたらきによるものと考へて頭脳さへはたらかすれば否頭脳を明晰にせんとて修養修行なし居るは一般人の考へなるべし。もとより頭脳は大切なり。されど是を我等に云はしむれば頭脳は肉体を働かする一種の機械とも見られ或は一カ所の役所とも見なして可なりと思うなり。所謂頭脳は国土を支配する政府に等し考うる時その政府の役人が種々様々の政治に対して国土を治むる力の強弱によりて支配なし居ると同様ならんと我等は考うるなり。然らば此役人に対して何か命令を下すべき上位の者なくんば是を統制すること難かるべし。頭脳にのみ重点をおけば即ち肉体の動作をなさしむるにすぎざるならん。前にも語りたるかの泰岳の如きは頭脳をはたらかす力うすきが故に彼を愚として取り扱い、又釈迦の弟子に己の氏名すら忘るると云う愚者に於てすら菩薩の境涯に入りたるもあり。然らば頭脳は何等の必要なきかと云うに決して然らず。頭脳のはたらきを人体にむけずして是を霊化せしめてここにはじめて大智は得らるるなり。汝等は肉体を養成せんがために心を用い居れど、神よりあたへられたる肉体は霊智と云う実を結ばせんがために肉体をあたへ給いしと考へて修行せば即ち汝等の思いとは反対となるなり。肉体は限度を有してある程度迄地上に置るるなれど霊智は永遠なりと考うれば従って修養の道は明らかとならん。かの泰岳を手本とせば自づと汝等の考へも一変するならん。
 泰岳の頭脳は至って強く且つ大にして決して愚者にあらず。釈迦の弟子又同様なりと知るべし。聞きても我名を忘るる如きは頭脳明晰ならずと汝等は考うるはあやまちなり。汝等は修養修養と日々種々様々の書物をよみ或は実地につきて見聞を広くなさば其にて智慧は増大するものとのみ考へてあまりに文献を広くなすがために頭脳は却って種々様々とはしり何れを是とし何れを否とするやも明らかならず、却って広く修養したる事柄が脳髄をいたむるのみにて一定のものを把握する力を失うに至る。其は唯物知りに過ぎざるなり。所謂浮世の辞書に等しく我等に云はしむれば無益の修行に他ならず。斯る事は却って迷いのみ多からしめ信ずる力の妨げとなるにすぎざるなり。泰岳は浮世の小さき事に意を用いず、大なる神界にのみ心をはたらかせあるが故に大なる実を結びたる大智者なり。釈迦の弟子又然あるなり。
 教主の仰せられし如く一法を修すれば万法に通ずるの理はここに存す。泰岳は一法を修して万法に通じたるも是大智の力なり。霊智のはたらきによるなり。此大智霊智は肉体ありてこそなされたる結果に他ならず。故に肉体は大切なり。有限界より無限界に進まば斯る大悟は得らる。汝等は有限界にのみ心を奪はれ無限界に重点をおかざるが故に大悟は得られざるなり。されば今より心を改めて否思いを改めて有限界の無力をすて無限界の体得を得ん事に力めなばここに始めて確定信仰の道は明らかとなりて開らかるべし。是等すべてに関しては次の書天界の巻に於て詳細説明を与うるを約し、未来篇は是にてとづる事とせん。
附言
 此書の半ばより欣情に我等が現はれて認めさせたるにて、慈音はその介添をなしたると知るべし。ここに附言す。

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