覚者慈音549

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第三の巻
           未来の巻        其の101
  第十一      確定信仰と不確定信仰    其の1                                                                   リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 聖者言葉を継ぎて曰く、「汝は従来なやみと思ひしこと是悩みにあらず。禍と思ひしことも是禍にあらざるなり。自然を離れて考ふれば即ち苦楽は伴う。もし汝にして正しき自然を認識し居らば苦楽は苦楽にあらず。苦しみと思うも亦楽みと思うも自然よりはなれたる結果に他ならず。故に苦しみあらば救はせ給へと神に願ひ、楽みあれば神に感謝なし居れどその願ひその感謝はみな汝が苦楽によって現はれたる現象にして決して神を知りて願い或は感謝したるにあらざるなり。鞭打たるれば痛しと感じ撫でさすらるれば快感を覚ゆ。故に鞭打たるれば救はせ給へと願う。撫でさすらるれば喜びて感謝す。これ迷いなり。春来りなば楽しみを感じ夏来りなば苦しみを覚え秋来りなば悲しみを覚ゆる等はみな迷いなるべし。その肉体により心に及ぼす影響にて本来は即ち日々好日、年々是好年の境涯に至らずば真の自然に親しむことを得ず。されば雨ふるもよし。風ふくもよしとの境地に迄修業修行せずば真実のさとりの道は開かれじと禅門の僧は教へ居るにてはあらざるか。鞭打たれて痛みを覚ゆるも撫でさすられて快感を感ずるもみな心のはたらきより生ずるが故に是を迷ひと云うなり。痛きはいたし、かゆきはかゆし、されどその痛みそのかゆみはみな汝が迷いをはらす一つの方便なりと喜ばば鞭打たるるも禍にあらず、撫でさすらるるも亦快感にはあらざるべし。此理をよくよく考へて先づ己に来る禍は己を励まし己に来る福は己を誡しむる方便なるによって受くる影響なりと思はば禍福はすべて汝の智慧をたかめ深むる自然のたまものなりと唯々感謝の心と変ぜん。然してその感謝の念を念として修行せば神は汝に在ることを必ずやさとり得る日の近きにあらんと思いて修養修行せよ」と聖者は誡めたりと云う。実に尤もの教へなり。溺るるものは藁をも掴むのたとえ、人は何か其れによって浮ばんとなすは是本心にして即ち迷ひを晴らす鍵となるなり。



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