覚者慈音548

                  三世と四世論
           未知日記第八巻
           第三の巻
           未来の巻        其の100
  第十       明より明にすすめ    其の2                                                                   リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


  汝はかりに百才の生命を有すると仮定して考へ見よ。もし五十才にして死すればそは五十年早く自殺したる結果となる。かくすれば肉体の栄養は充分に充たされて生命は長く何時も健康なりと考へて肉体にのみ注意すれば却って肉体をそこねて命数を全うすることあたはざること多かるべし。百才の命数をうけたるもの自然のままに世を渡り人工を加へずとも百才生くる人も亦多かるべし。然るにわが命数は何日迄生くるかを知らざるが故に如何にかして長寿をなさんと苦心するは是即ち不自然なり。その不自然は何処より来るか。即ち迷ひより来るなり。人生れし時われは何才にして没すと悉くが知り得るならば、そは確定信仰となりて必ずや迷ひを伴はざるなり。然るにわれ何時まで生くるやを知らざる処に人は迷ひを生じそこに危険を覚え、はては自殺するに至る。是悲しきことか又楽しきことか。されば我生れて幾才生くると知ることを得たらば死に近づくごと恐怖は伴ひ行くならん。知らざる処に楽しみあり。もし汝が己の命数を知りて四五日のうちに死ぬなりと知りなば汝は悶え嘆きて人眼も恥ぢず粗暴の振舞をなすやも計られざるべし。前にもしばしば語りたる如く悲しき中にも喜びあり。苦しき中にも楽しみある事は汝等既に知るところならん。世俗の言葉に「楽は苦の種子、苦は楽の種子」と語り居るにはあらずや。この二つは常に流転して絶ゆることなし。かるが故にここに何か一つの定まりたるものを得て是によってその苦悩を晴らさんと願うは人智の及ばざるが故に迷ひより生ずる願ひなるべし。汝等然とは考へざるか。人は常に不安より不安へと安からぬその日その日を送り居りて我は是にてよしと明らむる迄修養のつみたる者幾何ありや。この不安あるによって何かは知らず一つのものを正しく認識して其によってその不安を一掃せんと計り求むるはこれ人間の本心なりと云うも亦うなずくところあらん。されば人智の及ばざることを何か我よりすぐれたる智慧を求めて其によって不安の清除をなさんと計らんがために即ち神と云う人智よりすぐれたるものあらざるかと云う不審より神の有無を考へず、唯斯るものあらざるかと無心のうちにたづね求め居るにてはあらざるか。ここに考うべきことはすべての植物及び動物には時期ありてその時期を択びて種子を下せば時期に従いて花を開らき実を結び、動物は時期を択びて交尾さすれば子孫を多からしむる等々是はすべて人間が研究したる結果すでに確定なし居ることは汝等もよく知るところなり。然るに人間のみは時期によって繁殖し又時期によって死滅することは未だ確定の域に達し居らざるべし。人間にしてすべての動植物の研究をなし遂げたる以上人間が人間を知らずと云うことに汝等は不審を抱かずや。人間のすべてを知るものは人間以上の才能そなはりたるものにしてはじめて是を知り得るなりとせば人智の向上発達は何によってなし得るかを考へなば汝等は如何に修業し何によって修養してこのすべてを明らむることを得るやについて深く考慮せざればその目的は到底なし遂げ難きを知るならん。その智慧の深くなり行くは何処より来るやを考へて是によって一歩一歩迷ひより度脱せざれば道は開かれざるなり。すべては智慧なるべし。この智慧をたかめ或は深むるには如何にせば可ならんか。先づ神をはなれて然して自然に立ちかへりてすべての自然をわがものとして思惟し見ばそこにさとりの道は明らかとならん。神を願はんとするが故にそこに迷ひは深刻となるなり。神を信ぜずとも信ずるとも、もし神ありとせば神は信不信に不拘汝にあるならん。わざわい変じて福となり、福変じてわざわいとなるも是自然に似て自然にあらず。かく云へば汝等は不審するならん。昨日のわざわいは今日の福となり昨日の福は今日のわざわいとなる例はすくなからず。その禍福を作るものは汝にてはあらざるか。汝は自然をはなれて不自然の境涯に迷ひ入るが故に禍福は至るなり。この理をよくよく考へて先づ神をはなれてすべてを自然にまかする修業をなさば苦楽はものかは忽ち消滅して安楽の境涯は直ちに汝が脳裏に映ずるならん。


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