覚者慈音544

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第三の巻
           未来の巻        其の96
  第八    心の信仰と魂の信仰について  其の1                         NO3                                           リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 この理を具体的に説明せんに、例へば科学者が一つの発見をなさんとして着手するとき種々様々研究すれどならず万策つきて放棄せんと迄至りたる時、其ことに対して一つの発見をなして成功することは誰もよく知るところならん。人智にては及ばず。ここに神智に帰してはじめて大なる発見をなすことを得るなり。即ち事に対して万策つきる迄研究努力することは人智をはなれて全く神智に帰したる結果成功することを得たることの現象と考うれば自づとうなづくことを得るならん。ものに研究努力するは即ち人智を神智にかへすことなりと考うれば認識することを得るなり。よって物事の理をきわめんとならば斯く迄苦心せずば成功するものにあらざることも亦うなづき知ることを得ん。智を磨くと云うことは即ち人智の人を取り去りて神智に帰する方法と考うれば可なり。故に信仰は即ち人智を磨きて神智に帰するにあらざれば正しき信仰を得たる人とはなり難し。我等が語る信仰とは即ち人智をはなれて神智に達せよと云うことにして神の有無の如何を云うにあらず。人には斯く迄授けられたる一種の明智ありて、是を磨くと磨かざるとの相違に依てすべてを明らむることの可否はあるなり。然してその知恵を磨きあげて神智に帰せしむれば全知全能と化せられ行くは火を賭るよりも明らかならん。学問をしてその学に依て智慧の増大を計ることも信仰の力なり。智慧そなはらざるもの焉(いずく)んぞ神を知ることを得んや。智慧磨かれて明玉となり赫々たる光彩を放ちてはじめて神を知るに至らん。是即ち信仰の威徳なり。然りとせば唯すべての学問を広くすれば智慧は得られ信仰は得られれるかと云うに然らず。汝等の学問に依て徳をつまんとなすは枝葉の道にして根底の信仰にあらざる故に唯学問と云う枝葉にはその智慧すぐるるも他の道に入らば暗黒となる。故にそは全智全能とは云い難し。根底の信仰にあらざれば全智全能の智慧は得られざるなり。全智全能の智慧そなはらば枝葉の事柄はもとより如何なることに対しても必ずや認識することを得るは当然にして疑いをさしはさむ要はあらざるなり。と我等は断定す。否我等は明言して憚らざるなり。智慧磨き終らば物の理を発見するにあたっても従来の如く苦痛苦心の要なく直ちにその物の理を発見して直ちに成功することを得るなり。依て信仰は智慧を磨く第一の要素にして信仰なき人は智慧の増進を計ることを得じと云うも過言にはあらざるなり。

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