覚者慈音543

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第三の巻
           未来の巻        其の95
  第八    心の信仰と魂の信仰について  其の1                                                     NO2                         
             リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 肉体の信仰と魂の信仰とには一見相似て等しからざるなり。先にも語りたる如く肉体の信仰は実在を伴うが故に極致もきわめて簡単にして範囲はせまし。されど魂の信仰は霊的なるが故に終始なく故に限度を有せざるなり。されど信ずると云う上に於ては聊かの変りあらざることは云う迄もなし。肉体の信仰は迷い多くしてややもすれば枝道にふみ入りて迷い多けれど魂の信仰はかかるあやまちはあらざるなり。肉体信仰は自我の智慧によって進み魂の信仰は神の力によって進む。故に人智と神智の相違あるによってそこに大なる隔りを生ず。人智は浅く神智は深し。迷信妄信は人智にあり。正信誠信は神智に帰す。何となれば智慧と云う言葉に対して汝等が考うる智慧と我等が語る智慧とには聊か相違あるに依ってなり。元来智慧とは心のはたらきを云うならんと考うるは一般の思いなるべし。即ちすべてに智慧をはたらかすとか、又は智慧によって様々の行いをなすとか考うるは汝等の思いなりと我等は信ず。もし然りとせば智慧は神と人と何等異なるところなかるべし。ここに智慧に対する認識をあやまつなり。ものを深くきはめて然して其に依って得るところの智慧と物の理を知らずして自然にわき出づる智慧とには相違ある事を汝等も知るならん。又絶対智と相対智の区別もほぼ汝等には察せらるるならん。物の理をきわめてわきい出づる智慧は強く理をきわめずしてわき出づる智慧は浅しと考うる時、そこに何か一種の変りたるはたらきの生じ来ることも汝等は不審することなきか。同じ智慧に対しても種々様々異なりたるはたらきあるとせば、そのはたらきを逆上って智慧の根に至る迄ほり下げて智慧の正体は何処にあるかをきわめしことありや。神の智慧は深く人智は浅しと云いしも其理はここに存す。神智人智と区分すれど人に授けし智慧も神より下されしものとせば、神智人智の区別なかるべしと汝等は考へ居るならん。されど我等の汝等に語らんとする処は然らず。
 例へば一滴の清水を智慧と仮定して考へ見るとき赤色に移せば赤色となり、青色に移せば青色となると同様にして智慧を人間に移せば人智となり、他の動物に移せばみな其々の智慧となる如く智慧と云うに於てすら神智と人智とにはかくの如き相違あることをよくよく認識して人智の人をとりされば即ち明智となりて神にかへすことを得るなり。動物智も亦同様なり。この智慧を明らかにせんがためには先づ人智の人をとりさらざれば神智にかへすことあたはず、故に智慧を神智に帰せしむるには人と云う実体よりはなれて明智に移さずば神智は得がたし。肉体信仰はここにありて所謂実在化せる人と云う混濁せるものあるに依て全き智慧の信仰は得られざるなり。

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