覚者慈音535

            三世と四世論
           未知日記第八巻
           第三の巻
           未来の巻        其の87
  第五       相対信仰と絶対信仰
                       NO3                         
             リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 神を彼とし自分(おのれ)を自我として信ずるが故にここに相対の信仰となる。我は神を信ずと云へば其は既に相対の信仰なり。我もなく神もなく唯純然たる信仰に入りて止むに止まれぬ信念と変ずるに至らずば其は絶対の信仰とは云い難し。否々我等の云う信仰は其のみにては未だ絶対の信仰とは云い難し。彼我の区別なく唯止むに止まれぬ信仰となりても其処に何とは知らず残り居らばその信仰は絶対信仰にはあらざるなり。絶々対の信仰に入るには我もなく彼もなく信仰もなき処に至りてはじめてその信仰は絶々対の信仰となる。この信仰に達せずば浮住界を度脱することは難し。何となれば浮住界は絶対信仰なるによりてなり。慈音は未だ是を覚らず。故に絶対の信仰よりぬけ出づることあたはず。昨日は淵となり、今日は瀬となり、或は火焔となり或は水氷となりてさまよい居りてこの階を度脱することあたはず迷い居るも未だ絶々対の信仰を得るに至らざる故なり。ここに注意すべきことは浮住界と云へば絶々対界の如く考へなばそは大なるあやまちなり。浮住界にも相対絶対の区あることに思いを致すべし。世の中に信仰なき人の多くは相対浮住界になやみ居て絶対浮住界に到達するは稀なり。信仰厚き人は絶対界に至りて永久さまよう者は多し。もとより信仰の程度強固なれば絶対浮住界より絶々対に進む力を有するは当然なり。一般人の滅後相対浮住界にてある一種の蜃気楼を造り居るものあり。是は以前にも説明したる如く迷信濃厚の人に多し。恰も山彦のこだまする如くすべては己より出で己にかへり居るなり。彼より出でて我に来り、更にかへるならば我は彼に導かれて彼に至る。ここに彼我の区別ありて相対信仰は微妙なる現はれをなし居るなり。人間肉体を有する間にこの相対信仰よりぬけ出でて絶対に入ることは容易の修業にてはなり難し。
 例へば我信仰は盤石の如くにして動ぜずと思うも何処か潜在しある彼我の対立はその信仰を妨げて絶対とはなし難し。故に絶対の境地には到達するを得ざるなり。神の存在の有無は論議するの余地なく、ありと思うもなしと思うもそは人間の心まかせにて、なしと思うもあるものはあり、ありと思うもなきものはなきなり。徒に神の存在を論議するの要あらんや。宇宙の本体は人智の推理にて如何に考うるともその真髄をきはむるあたはざるは当然にて論議するは唯いたづら事に過ぎざるなり。されど是を応用する方法を考察するは人智の発達  を増進せしむるに役立つものなれば時にふれ折にふれて研究なし折らば必ずや得るところ多かるべし。汝等が地球上に於てもし空気がなかりせば太陽の光は一点に止まりて広き光明は輝かざるべし。此理より信仰の力を考へあはせ見よ。宇宙の本体がすべてに相通じて八方十方に拡張しつつあるによって、すべては生存し或は変化をなしつつあるなり。もし宇宙が一点に止るものならば一路は発達し他は煙滅するの他なかるべし。信仰も一点に止まらば斯るあやまちを生ず。信仰は百般に亘って広く通ぜざれば正しきさとりとはならざるなり。故に一つの信仰が百般に通ずるにあらざれば真の信仰にはあらず。又正しき信仰とは云われざるなり。善悪邪正すべて消滅する信仰こそ善悪邪正の区を明らむる信仰となるなり。是即ち正しきさとりを得るの動機となるなり。
 教主が一法を修すれば万法に通ずと仰せられしはこれなり。一つの光明を追い求むれば一つに囚われて他を暗くす。故にその極致に至ればそれにて終りとなりて他にぬけ出づる道を求むることは難し。故にその境涯より更に進んで度脱することを得ずして迷うなり。万法に通じて是を理解し万法一体、一体万法の法に従はばぬけ出づるも容易にして迷うことなし。汝等八大門に於て見学したる如くあみの目の如き光明の中をとび来りて見学者の魂を運び去りたるを見たることあらん。是は万法に通じたる霊のはたらきを示めしたるに他ならず。是即ち絶々対の信仰者にしてはじめてさとり知るところにて唯相対信仰にては理解することあたはざるなり。故に信仰は絶対信仰ならざるべからず。


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