覚者慈音533  三世と四世論  相対信仰と絶対信仰について   セイキョウ貴尊講義

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第三の巻
           未来の巻        其の85
  第五       相対信仰と絶対信仰
                       NO1                         
             リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 仏教には因果の道理を盛んに説法なしつつあれど其因果論はたして宇宙の理論と同一に成立なすか。例へば善因善果悪因悪果ならば善行を修するものは天国或は極楽へ往生し、悪行を行う者は地獄の地に移さるる結果と称へて悪行を行うものをかたく戒め居れど我等が語らんとなすところは他にあり。もとより宗教者の称うる説は善事をすすめ悪事を退けて世を安らかならしむる一法として、是を鼓吹なすならんも宇宙の原理よりこれを見る時はそは理ありて理なき結果となる。所謂相対世界は善悪邪正の区別あるを以て善には悪を伴い邪には正を誘う。されど絶対ならば善悪邪正は一体なるべし。然る時は善悪邪正の区別消滅して何れの是非を鑑別することを得ず。ここに相対信仰と絶対信仰の相違あるなり。引力及び圧力等は相対なるが故に現出すれど絶対ならば又引力圧力の区別も成立は不可能なるべし。宇宙は絶々対より絶対に、絶対より又相対と分離して相対より複相対と次第に拡大強化せられて汝等が住む宇宙は構成せられたり。されば汝等の世界の如く複々相対の宇宙にありては理論も区々まちまちと変化するかは当然なり。故に甲論乙駁起りて却って是非の区を明らむることを得ず。所謂昨日の理は今日の害と変ずるは是非もなきことなり。されば是を逆上って次第に絶対に絶々対にかへる必要に迫らるるも亦理なるべし。思うに複雑多端の汝等が世界にありては何れを正として進むべきか、何れを邪として退くべきかの思いに迷うも亦是非もなきことなり。是を詳らかにせんが為に教主は我等を通じて世に処せんと遊ばされしその任を架せられし我等の責は又大なり。依って徐々にこの道を教へんが為には我等の努力も亦従って迷いを伴う。
 例へば一点より是を百本の線に区分する時、その百本の線が逆に一点に帰する時は即ち一なれどその百本の線を一々説明せんとせば容易の事にはあらざるべし。其と同様の関係にて汝等が心の迷いは百本の線を一々説明すると同様の理に合うを以て我等が迷いと云うも是に類す。されば汝等が心を百人百種と見なす時その心の一々を百人に説明するならば悉くが思い異なるを以て其々にて説法するも帰するところは一つの点に集る。所謂理は一にして二なく唯一点が百線に流れあるにすぎざるなり。世の中の事柄は一にして二あるものにあらず。もしありとせばそは枝葉にすぎざるなり。現今汝等は科学万能を称へ居れど理は一にして二あることなし。されど複々相対の世界なるが故のすべて異なる如く見ゆるのみなり。
 火は熱し風は動揺水はうるほひ地は堅固、耳は音声,鼻は香(仏書中の句引用)と区分さるれど根は一なり。二あるものにあらず。ここに相対信仰及び絶対信仰の区別を以て現はせど要は相対信仰より絶対信仰に変ずるのみにて理は一にして二あることなきは云う迄もなし。迷うと云うは相対なり。信ずるも亦相対なり。故に絶対に入り又絶々対に入らば信仰と云う言葉も従って消滅す。

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