覚者慈音530

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第三の巻
           未来の巻        其の83
  第四       神を求めて何処迄も
                       NO1                         
             リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 仏教信者にありてすら弥陀の姿は如何にと問へば「三千大世界に一杯」と答うるなり。又耶蘇教信者は全知全能の神と称し居り、又他の宗教信者に於てもみな同じようなる説を称へ居るに不拘絵空事に囚はれて神の姿を想像してその姿を追慕なし居るは如何!
我等は不審し居るは是なり。汝等は如何に思うや。人は人本位より凡てを観察するに依って理解する事も無為に終るなり。仮に神の姿を宇宙全土一杯の人間の姿と見なして考へ見よ。然る時は汝等は何に相当するか。幾億万倍の顕微鏡を以てしても見る事あたはざる細胞にすぎざるならん。その細胞にして人体の全身を知ることの難きは云う迄もなし。然るに汝等はその神を姿によって求めんとなすに依って労して効なき結果となるなり。よしや望が叶いてその姿を見たりとて其が何になる事ぞ。唯神を見たりと言うにすぎざらん。汝等斯る詮なきことに時間を空費することを止めよ。神は汝等に姿を見せんとて汝等を造りしにはあらざるべし。然らば神を知らずともよしと云うかとの質問をなすならん。その質問に対して我等は然りと答うるなり。何故斯る答へをなすかと不審する勿れ。汝等は神の姿を先づ見定めて後にあらざれば神を信ずるあたはず。故に神を先に見んとして苦心するならん。然して更に神の力を知りてのちおもむろに方策を構ぜんとの考へならば、其は木によって魚を求めんとなすよりも尚至難なれば、我等は神を知らずとも可なりと云うなり。然らば我等が今日迄語りしは無意義とならんと汝等は考うるか。其は汝等の心掛け一つにて無意義とも有意義ともなるなり。兎に角我等は汝等に対して神界に行く道を語り居るにすぎず。我等はなしてならぬ事を伝うるにあらず。されば汝等に対して神の姿を見よとは決して教へざるなり又神の力を計れよとも教へざるなり。されどこの項目ににかかげたる如く神を求めて何処迄も進めよと勧むるなり。斯く語らば汝等は迷うならんと思へどよくよく考へ見るべし。
 我等は汝等に対して汝等の心に神を作りては如何にとさへ伝へ、又第三項目に於て覚りて知れよと掲げし事より考へを廻らさば我等の意中をくみとる事を得る筈なり。即ち神の姿を見定めたる後ならでは神の事を考うるも甲斐なし思うは、所謂知りて後ならではさとるを得ずと云う思いと同様なるべし。斯る考へにては永久神を知る事は難からん。よって汝等は神を心に連想し己自らはその作りたる神の位置迄人格の向上を計り、又理想を高めてその幻影を追い求めつつ理想の神を作りて自らの向上を計るも亦一法なるべし。


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