覚者慈音502

           三世と四世論
           未知日記第八巻
           第二の巻
           現在の巻        其の54
  第四十二     魄と摩擦根との区別                                               
             インショウ、ミキョウ貴尊講述


 動物の愛情のこまやかなることは人間にも勝ると世人もよく知る如くなり。獅子は子を産みて三日目に深き谷間に落としてその勇敢を試むるとは、人間教訓の方便の譬になしたる言葉にして、決して斯ることをなすものにあらず。猛獣と雖も子をいつくしむは行いは格別なり。獰猛性と称せられるる猫にすらとりたる鼠を我子に与へ喰いあませるを己食するを見ても子を思う心の深きを知るならん。人間は是に比して聊か恥づる点はあらざるか。終戦後の日本の近代捨子の多きを我等は遺憾に思うなり。犬を見よ。五六匹の子を育て成長せしめ居るならずや。然るに人間は「この子捨てざれば父子共に餓ゆ。捨てて他人の情にすがらん」などとは果して人間愛の理に合うか。或は合はざるかは別として動物にして他をたのまざるに人間として時鳥(ほととぎす)の如くならば実に不甲斐なきことならずや。其はまだしも親子妻子を棄てて顧ざる人すら多きは何と云う無情なることならずや。斯る心は動物魂より尚劣るなり。斯く語らば世人は云うならん。子を捨つるは親として深き愛のあればこそ棄つるなり。即ち我手に育てんとして育つるあたはず、せめては他人を頼みてをいさきを長からしめんと計るは動物愛よりすぐれたる愛ならずやと。余り身勝手なる理屈ならずや。もしひろい呉るる人なかりせはば何となるべきとの考へは如何なる答へを与へしか、其はその子の運命にして死すれば其迄なりと思はば其は正しき道なりや。其が人間性魂魄の摩擦より生じたる智慧なりと考うるか。然りとせば魂魄は動物魂より劣ると云う結論となるべし。我等世人に語らんとするところは捨子の可否に対する問題にあらず。捨子はもとより罪悪なることは云う迄もなし。動物に於てすら子を棄ることをなさざるに人間として斯る非常識を敢てする法あらんや。論議の余地もなく又論ぜんとするにもあらず。我等の云わんとするは他にあるなり。其は何なるか。即ち捨子するは動物性摩擦根のはたらきなれど人には裏面に潜在なし居る魄ありて表面に現われてはたらく力そなはらざるも何とて是を許すべき道理あらんや。 此魄は魂をせめて其無法をさいなみて許さざるなり。仏教にはこれを不動智と云なり。然して魂が平素育てられある魄の慈悲を観音力、観音智とも称し不動と観音に区別し慈悲より生ずる現われと説き居れり。其は兎に角善には善の報、悪には悪の報あるもその源は魄の力なり。魂魄一体の行つみたる人なれば捨子などして永遠の呵責に苦しむ行為をなすものにあらざるべし。
 魂魄和合せざる間は動物根は常に加害或は障碍となりて存在するにより摩擦によって生ずる争闘はたゆることなし。故に動物はこの摩擦のたゆることなきによって苦しみは人間の智慧にて察し難き苦痛を持続なしおるなり。人間には魄より受くる呵責はあれど其魄によって又救わるる喜びもあるなり。動物性摩擦には分別あらねば刹那的なれば救いの助けはなし。人間は親子兄弟間にありて肉体情欲を充たすことはあらざるならん。されど他の動物は交わるなり。故に人間に於て斯る事あらば彼等は動物なりといやしまるるならん。是何故ぞときかれなば世人は唯其は動物性本能なりと答うる他なかるべし。されど我等は然とは答へざるなり。
 人間はもとより常識より血族的交わりを悪と定めて是を犯す勿れと禁止したる故なりというものもあるならん。その禁止法を定めたるは人間なるべし。故にその智慧はその法の根源は何処より来りしかをたしかむれば霊なるべし。即ち霊は魄に伝へ、魄は魂と和して是を悟りたる結果なりと知ることを得るならん。故に人間には魄のそなはりあることも推して理解することを得るなり。所謂原始時代の人類或は野蛮人と云はるる人類はこの行為を敢てするあれど彼等は動物性摩擦根のみはたらきて魄の存在を知らざる故なり。されど彼等と雖も魄のそなはりあるによりさとせば決してなさざるなり。然るに魄のそなはりなき動物は如何に教ゆるとも改むるものにあらず。さりながら人間界より転落して畜生界に移され其が漸く人間界に帰るを許されんとなす畜生ともなれば理解する力を有するもあるなり。畜生に魄を有せざる理由は少しは理解なしたるならん。人間本能とか或は動物性本能とか称するのみにてはすべてを明らめ難し。よってその相違は即ち魄の有無によると知らば理解するを得るならん。                   

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