覚者慈音496

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第二の巻
           現在の巻        其の49
  第三十九     魄と魅力魂(一名摩擦魂、何れも仮称)                    との相違について                    その三              
              インショウ、ミキョウ貴尊講述


 動物には動物として人間の智能にて察し難き性質を有する事は世人も諒とするところならん。されど我等は其すべてを知るなり。いやしくも神に奉仕るものとして斯る事を知らずと云うことあらんや。肉体を有せし時代より愚者と云はれし泰岳に於てすらよく知りたるなり。まして天界にあるものにしてかばかりのことを知らずんば神のつとめはなし難く又人を導くことも許されざるなり。故に世人は疑いをさしはさむことなく安堵して聞くべし。
 元来摩擦魂は刹那的にして永続的のはたらきには欠くるところきはめて多し。所謂刹那的とは単に目前の処置にして即ち斯くなれば、斯くなると云う智慧にすぎず。永続性とは未来を察する智慧にして斯くなりての後は如何になるかと迄に及ぶを云うなり。我等斯る言葉を用ゆるに対して、世人は心中に刹那的とか永続的とかの語を以てせずとも浅智慧、深智慧にても可ならんにと思うならん。されどそは真の浅智慧にて早合点なり。摩擦根と云へば動物根なれば浅智慧ならんと早合点するはあやまりなり。世人の云う思慮浅きとか深きとか或は浅智慧、深智慧とは分別の濃薄を指すにて帰するところ賢愚を意味すること多かるべし。動物の中には人間の予想もなし得ざるすぐれたる智慧を有するもあり。賢愚の点より観察する時は、或場合動物に学ぶところすくなからずあるなり。人間常識の眼より見て彼泰岳は愚者と見ゆれど、神の眼より見れば彼は決して愚者にはあらざるなり。斯くの如く人間界には身勝手に定めたる常識より賢愚を測定するによって真の賢愚を知るを得ざるなり。まして正しき神の道を知り且つ真の報恩報謝の明らめをなすことを知るべき。世人は他人に情をかけて其に対する報あらば報恩とは考へ居るならん。故に畜生も恩を返すことを云うなるべし。是人間界の報恩なるべし。
 汝等神に感謝の心より供物をなして其に依って恩に報んと計るならば未だ神を信ずる力そなはらざるなりと、或聖者の門人に教へ居るを我は聞きたり。世人は其言葉の意味を知るや。知らざる人は多からん。世の中の宗教信者は神仏に珍らしき捧げものをなし或は金品の高価なるものを捧げて是は信仰の強きものと思い居るを見て我等は遺憾に思うなり。弥陀もキリストも供物によって極楽或は天国に来れとは教へざりしならん。
 其は兎に角摩擦根は人間にも有するなり。されど人間には魄のそなわりてその魄の力が加わるに従って摩擦根は減退し魄力全きに及びて摩擦力は消滅し、ここに始めて真の人間は完成せらるるなり。然るに世人の多くは人間のつとめ人間とは何なるかを知らず一生動物にて終る人は多し。かかる人は折角人間と云う宝を持ちながら其宝を石瓦同様に泥中に埋むるなり。勿体なきことならずや。動物根を清むるには魄の増大を計るべからず。魄を増大せしむるには先づ魄とは如何なるものなるかを知るにあらざれば増大する事は難かるべし。
 

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