覚者慈音492

           三世と四世論
           未知日記第八巻
           第二の巻
           現在の巻        其の46
  第三十七     重魂と混同し易き事柄について                          その三              
              インショウ、ミキョウ貴尊講述


 過去の巻に貴尊が申されし赤子に重魂して言葉を発せしむる等の悪戯をなすは未熟不鍛錬の修行邪魂にて魂魄整いたる人間に侵入する力なくさりとて幼児などにも魄の芽生強ければ是等も厭い最も侵入の簡単にして人をひき入るる都合よき嬰児に喰い入りて世人をひき入れ、己を神の如く思はしむれど嬰児は其がために肉体の発育不完全より遂に死に至らしめ己も亦宙に迷うに至る。のみならず此魂は通力つきて人間性より脱落して動物に化せらるるなり。是等も因果論にて語るべし。
 さて世人がよく口にする憑依物(つきもの)と称して取り扱はれ居るものには入魂したるものもあり、又精神に異状を来したるあり、或は重魂のものもありて一様ならず。是を判断するには修養修業つみて常識そなはりし人に在らざれば判断すること難し。現今の学者間にはすべてを精神病者に帰せしめて重魂入魂などは一笑に附して顧みず、一方宗教の行者達は精神病者を何かの祟りとか憑依などとか称して是等を治癒せしめて信仰を得せしめんと計り、或は医薬にて治癒する病気にすら彼是たたりなどと偽わりて祈祷など怪しげなる呪いをなし、はてはてをくれとなりて治すべき病すら死に至らしめて彼は信仰うすき故死したれど其は神の思し召しなれば、後生は救わるべしなど己の犯罪を神に負はせて自らは尚も罪を重ねて顧みず。かかる輩にして神を知ることを得又神によって救わるることのるべき道理あらんや。されば入魂重魂の理由を明らかに知るならば、かかる迷信妄信はあらざる筈なり。世の中の多くの人の精神に異状を来し居るものを我等が見るところによればその九割迄は肉体の変調より生じたる精神病者にて入魂者重魂者はその一割にも足らざるなり。
 悪念は近代殆ど見受けられずなりたるも昔は念より生じたる一種の念力病とも云うべきものもありしは事実なり。是は信仰者の減じたる結果近代は稀に見るところとなりたるなり。科学の進歩したる現も力あれど、又一面不正直者の多くなりたる力も見のがし難し。世人の考へ居る霊がわざわいをなすとは即ち執念にして魂魄にあらざる事多し。霊は一般共通なれば、始めより宿り居て別段外部より新しく侵入し来るものにあらずとは、しばしば語りたり。されば魂と念の相違は如何にと云うに入魂は共和して入り来るならば怨み憎みあるにあらず。然して魂は侵入後主魂と魄のちからによって眠りを醒して己が持つ個性をあらはすなり。謂はば魂の種子を肉体の畑に蒔きたると思はば可なり。されど念は風の如く、嵐の如く直ちに被害を及ぼすと思はば念と入魂の相違は頷くことを得るならん。此理より考うれば念は肉体に及び魂は精神に及ぶ関係あるべし。例へば怨みを有する念は其相手を傷けんと直接行動に出つれど、魂は怨みを有するにあらねば、仮に善魂が悪人に入らば悪を善化せしめ、悪魂が善人に入らば悪化せしむる等は精神に及ぼす影響なるべし。世人の中には是等に関して見聞したることありしならん。遂先頃迄世間より善人なりと褒めそやされし人が、悪事を犯す人となりたりなどの如き、又悪人が善人となりし例はすくなからずあるならん。然して是等は修養に依って無変化したるにあらずして唯変化せし等は即ち入魂の現われと思いて可ならん。
 念力より現わるる影響は平素健康なる人がたまたま些細の風邪とかわずかの負傷等より重態ととなりて病みつき、更に薬石効なく医師ももてあます等の如きもよく研究すれば念の襲来に見らるる現象なる事も多し。されど是等は医師の誤診より起る現象もあれば全部を其と云いがたし。身体健全なるに不拘精神的に苦痛を感じ唯一種の神経衰弱なりとて精神療法など行へど更に効果なし等の類は念に帰せしめて可ならん。然りと雖も軽率にかくと断定することなく種々様々原因をたしかめし後ならでは決定なす勿れ。又重魂に於ても同様なり。重魂は前にも語りし如く複雑なる意味の含まれあれば殊更注意を要すべきなり。


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