覚者慈音483

               三世と四世論
           未知日記第八巻


           第二の巻
           現在の巻        其の37
  第三十三     脱汚魂脱汚心について              
              インショウ、ミキョウ貴尊講述


 其兎に角考へかたによっては他力ともなり又自力ともなる。所謂全智全能を指したるによってなり。我も世にありて仏道を修めし頃は自力他力についてよく論旨を交へたるものなりき。されど彼是論議する間は真の信仰は得られざるものなり。故に法然は一枚起請文に於て「智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず、又学問をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず」と説きたり。是に依って考うるも一度信じたれば論議の必要なく無条件ならざれば徹底する信仰は得られざるべし。世人は理屈に明け、理屈に暮して結局何ものをも得るあたはざることの多きを我等は知る。されば理屈の世の中を改めて実行を先にする世の中となしては如何! 兎に角自力にもあれ、又他力にもあれ帰するところは信念にして念を強くするを目的とするなり。さればこそ修験者が深山幽谷に在りて難行苦行を重ぬるも念力の強固ならしむるにすぎざるなりる世人の多くは我意と念とを同一の如く思い居るならん。我意は執着心を強くするのみにて無益の心なり。故に如何に強くとも我意には限度ありて挫折すべし。念は斯る憂なし。即ち限度を有せざればなり。故に念力強き人は仇をなす悪念となる事もあるなり。病を克服するも念なり。世人は己自らは人間なれば偉大なる力なしと思うが故に神仏の力を求めてその力に依って救はれんと計れど帰するところ其依頼(たのみ)こそは念を増大する一つの方法にして所謂力は己自らが有する霊のはたらきなり。故に迷いありては念力は決して増大せざるなり。何となれば迷いは二心にして念は一ならざるべからず。例へば他人の苦しみを見て哀れを感じ其を救はんと計る念ならば、其は正しきと思うにより一念となすことを得るに依ってその念は通ずるなり。されどもし他人を害せんと思う念には一方に良心の呵責ありて二心となるによりその力は弱し。さりながらその二つが良心の責を打破することを得れば忽ち悪鬼の勝利となりて強くはたらき遂には彼を倒すに至る。念は善悪を問はず、はたらくに依って用法の大切なることは事は云う迄もなし。
 されば宗教者は神仏の念を求むるを要す。何となれば神仏は正しき念を念として悪念を斥くる助けとなればなり。念力乏しければ従って気光素の働きも薄し。気光素は念の力に応じてはたらく故に、気光素乏しければ勇気も共に減退す。勇気なければ精神上に及ぼす影響はきはめて弱くして物事をなすにも緩慢となり如何ともなれと云う如き放任的と化し意志薄弱となり、遂には肉体に迄病苦に犯さるるならん。斯くなりては再起は容易の事にあらず。故に勇気を育つるには念力を強からしむる必要あるなり。動物性の根を根絶せしむるには念力を強く養成して其によってなさざれば他には方法はあらざるべし。又一時に根をぬく方法には前巻に語りし熊の穴に見て投じたる禅僧の如くなすもあれど、是は一般的とは云い難し。然してこの種の法は行いかたをあやまれば有害無益となる怖れあれば省略す。世人は前巻の教へに従いて動物性汚心と云う汚れたる枝葉を払いて今は人間性初日を拝する喜悦を得たれど、未だ汚魂と云へる根の存在なし居る以上、汚心の枝葉は再び繁茂するは必定なり。故にこの人間性初日の栄光ににわって完全に汚魂をぬきて焼却せざるべからず。是を除去するには人間性念力を以てせば根絶は容易になるべし。




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