覚者慈音482

           三世と四世論
           未知日記第八巻焉
           第二の巻
           現在の巻        其の36
  第三十二     脱汚魂脱汚心について              
              インショウ、ミキョウ貴尊講述


 「人間同士が幸いにも心が見られず又見ることが出来ないのが仕合わせであろう。もし見られたり又見ることが出来たなら如何ばかり恥かしい思いをせねばなるまい。だが其を明らかに見通して居られるお方があることに世人は心づかず、汚れたまま洗濯をしようともせず箪笥の袖出しに仕舞い込んで黴させて箪笥ばかりを毎日ふいて居るとは如何したものだろうか。せめて年に一度位でも、土用干しをして黴させぬようにしては如何なものぢゃ」とは或僧侶の説教の一説をそのまま披露したるなり。朝な夕な化粧の時、心も鏡に映り居ると思いて世人は修養せらるべからず。顔形が映るならば心も共に映り居ると考へて鏡に向いて化粧せば一層美はしさは増すならん。醜き心は汚心にしてその心を起さしむる原動力に相当する心を汚魂と云うなり。即ち汚魂は根にして汚心は枝葉なる関係ありと思いて可なり。この枝を払いその根をぬく。是即ち脱汚心、脱汚魂と云うなり。この行はきはめて国難なる法を行ぜしむる故に修行者の大半は苦痛に耐えかねて下山するなり。今一つ語らば行者の二本の足首に紐にて縛り、樹木の枝に逆さに吊し、然して大声に呪文を称へさすなり。然して血を吐くに至らば一度はおろし幾度も幾度も脱魂なす迄続くるなり。是を忍苦の行と称し居るなり。もとよりかかる行は小乗的にて大乗にあらねど我も行ぜし一人なり。その苦痛たるや言語に絶す。然るに門兄泰岳は三日三夜なして平然として顔色だに変ぜず、客血等おこさざりしと云う。実に不可思議なる人物なりと聞きて我等は奇異の感に打たれたり。かかる苦行をなして何となる!無知蒙昧の人間には手もつけられじと思うは現代人に限らず昔の人と雖もみな同様なりしなり。さりながら是には他に理由ありて一般人には諒解し難き深き意味は含まれある事は云う迄もなし。専門家にはかくも苦行を重ぬるにあらざれば極意は許されざるに世人はかかる苦行をなさずして道を修むる幸福を感謝せざるべからず。余事は別として斯る原始時代の野蛮人と嘲笑する現代人は物質上より、又現実的よりの証明なくんば信ぜざるは当然なれど将来学問の進むに従い、迷信として放棄せられたる事が正信なりしことに気附く事も多かるべし。
 さて脱汚魂の法には一時に根をぬくと又枝葉より徐々に根に及ぶとの二種あれど、原理は一なり。所謂仏教に云う他力自力に合い又医学の薬石療法かもしくは物理療法か或は切開手術に匹敵すと思はば可ならん。世人のなじみ深き観音普門品の中に「甘露の法を雨いで煩悩のほのおを滅徐する」と云う句あり。是は枝葉より根に及ぶ法に合うなり。即ち観音の力を念ずれば云々と云へる語につきるならん。

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