覚者慈音479

           三世と四世論
           未知日記第八巻
           第一の巻
           過去の巻        其の33
  第二十九      自然、不自然の愛と情              
            リョウジャ、セイキョウ貴尊講述


 絶対自然より慈悲は生じその慈悲は相対自然によって愛と情に分かれて生ずるに至りたり。故に慈悲分れて愛と情の二道となるとも云い得らる。されば愛と情は相対自然に属せしめて可なり。されば動物性愛情は執着を伴うにより籠の鳥を愛し又情をほどこすに等しければ鳥は不自然の正に属す。故に範囲せまくして自己本位となるにより是は不自然の愛と情にすぎざるなり。例えば男女の恋愛について考へ見るべし。恋ははじめの動物性にはじまり次第に愛を伴う。されど其も動物性にして肉体情欲を求むるを目的となす人は多し。斯る恋愛は恋情にして恋愛にあらず。一般人の恋愛は動物性なれば執着愛なり。故に動物性恋をはなれて人間性愛情とならざれば神聖なる恋愛とは云い難し。人間性愛情は心と心の愛情にして肉体情欲を伴はざる故に自然の愛にして不自然愛にはあらざるなり。何となれば肉体愛は限度あり。精神愛は限度なければなり。夫婦の愛は陰陽一体の結果となるにより是こそは愛情を起す根本原理とも見なさるべし。何となれば人類に限らずすべては陰陽結合和合により生ずるによってなり。即ち夫婦より親子更に子孫と広がり其が他人にも及べばなり。所謂動物性愛情と人間性愛情を簡単に説明すれば一本の樹木と海に注ぐ河流との相違なり。一本の樹木は根と云へる親より梢の子孫に及べど、他の樹木とは根を異にするによって愛情の念はうすきなり。是血族性なる故なり。されど水は水源地は微々たるものなれど下流に行くに従いて交はり深く遂には海に入り船を浮かぶるに至るなり。一本の樹木を親子子孫と見なすならば朋友知己の関係は如何にと云うに其は恰も寄生木接木の如しと思はば察するを得るならん。故に動物性愛情は自他の区別に分け隔あり。人間性愛情は精神的なるにより水の如く浅くとも深くとも同化せしめて濁れば共に濁り澄めば共に澄みて相互に区別をなさざるなり。
 汝等人を区別し差別するは動物性愛情にすぎざるなり。我等今迄語り来れる事についてむいささか注意しておくことあり。そは他ならず。我等使用し来れる不自然と云う言葉についてなり。動物愛と雖も亦人間愛と雖も範囲の広狭にすぎずして愛と云うに変りなければ即ちすべては自然にして不自然とは云い難しと云へる疑問に対して注意をあたゆるなり。我等ははじめ軽自然重自然と命名して講ぜんとなしたれど、ミキョウ曰く、あやまちを誘う愛情は神の自然より遠ざかる故に自然に類して自然ならねば軽重の言葉を以てせんよりは、寧ろ正不の言葉を用いては如何とありたるにより後日絶対自然を語るべき時を慮って斯くははなしたるなれば、汝等曲解せざるよう注意しをくなり。即ち我等の云う不自然とは自然にあらずの意味に考うる勿れ。即ち正しからざる自然或はあやまてる自然の類と解釈して聞くべし。自然には限度は有せず、厚ければ厚きに化し薄ければ薄きに化す。是自然の法則なればなり。又此項目に自然と不自然とあるは正自然を省略したることを附言す。今後と雖も同様と承知すべし。
 さて動物性愛情と人間性愛情の相違は斯くも大なるへだたりあるに依って其が修養修行にも亦従って強固軽重あるも是自然の道理なりと知るべし。大地に根を共にする動物愛はややもすれば憎しみに変ずる憂あれど、同化一体となる水流愛はたとえ源を異にすとも憎しみ愛み一体なるにより此愛情は正自然にして不自然にはあらざるなり。故に動物性愛情をはなれて精神愛即ち人間愛ならざるべからず。されば動物愛にして根を異にすとも踏み居る大地は一なることに思いを致さば修養の力によりては一体化するを得るも亦不可能にあらねど是にはなみなみならぬ努力を要するなり。其は自然をあやまる故なり。精神的愛情は塞(せき)止められし水の如くわずかにその堰(せき)を払うことによって一体化す。故に修行も余りに努力を要せざるなり。又精神愛は大空の如き関係なるが故に心の小鳥を放ちやれば其にて目的は達せらるるなり。堰と云うも扉と云うもみな執着を指すなり。



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