覚者慈音469

           三世と四世論
           
未知日記第八巻
           第一の巻
           過去の巻        其の23
    第二十    有量の光明と無量の光明              
             リョウジャ、セイキョウ貴尊講述


 汝等人間は畜生界より度脱して半動物半人間としてをかれたり。さればこの動物性を度脱するにあらざれば如何に深慮考案するとも天界を知るは難し。是は動物性本能にさまたげらるる故なり。即ち汝等は有限の光明に憧れて無限の光明を知らざる故なり。有量の光明は光強く感ずれど眼を閉づれば消滅すれど、無量の光明は斯ることはあらざるなり。さればこの半動物性を離れんがために人は修養するなり。有量の光明を離れて無量光に浴せんがための修行を続くるなり。汝等冥途と云へば直ちに死後を考へて縁起わろしと坊主くさく思うは死を厭うかもしくは死体を聯想して醜き汚れを考うる故なるべし。さりながら我等の語るところは未だ肉体を捨てざる間を云うにて滅後の事を語るにあらねば縁起をかつぐ勿れ。汝等縁起をかつぐは未だ修養の足らざるなり。余事は別として人間はこの動物性の殻を脱がざれば再び三度人間として生れざるべからず。恰も米となすには籾を取り去らずば食するあたはず。籾として残し居れば又土に下されて成長するに等しければなり。世の中には人間は動物なれば動物として一生楽しまば可ならんと語り居るを我等は聞きて苦々しく思うなり。諺に云う、「たまみがかざれば光なく、人学ばざれば智なし」の教訓を棚に上げて汝等は時は金なりの言葉に眩惑されて動物性を益々深くし居るを見て、我等哀を感ずるなり。汝等動物性譬る有量光と云う衣を脱ぎて人間性として許るされたる無量光の衣に改めよ。然せば生死の区はぬぐひ去られん。汝等肉体のみについて他の動物と比較して考へ見よ。他の動物は暗夜に於ても自由の行動をなすにひきかへ、人間は彼等の如くに自由の動作をなすことあたはざらん。然りとせば人間肉体は動物より劣るならん。故に半動物性を捨てて人間性本来に到達せざれば恰も宙につるされし形にて天にも上れず、地にも下られず生涯苦悶を続くるの外なかるべし。汝等過去を振り返りて考へ見よ。何一つとして満足すべきことのあらざりしならん。然れどもその満足すべからざるを満足せしめんとの希望にゆだねざるならん。是は何故ぞ、即ち純動物と半動物との相違あるによってなり。汝等純動物にかへりて人間性を放棄せんとならば玉を石にかへるに等し。誰か斯る愚を敢てするものあらんや。
 汝等有量の光明とは何を指すかを知るか。云はずもがな人爵なりと答うるならん。人爵もとより結構なれど天爵とは比ぶべきもなき事も亦知るならん。されば有量の光を追はんよりは無量の光即ち天眼通を許さるれば己自らの移さる位置は確実に知るを得て下界の世渡りも安心して娯しくすごし、又他をも導きて安からしむる事を得ん。太陽は有量の光明なるが故に昼夜のある如く、有量の人爵には表裏ありて自づと競争の心より他に害を及ぼす恐れもあらん。されど天爵無量光は明暗の区別なければ表裏もあらざるを以て道をあやまらず、歩み来らば貴賎貧富老幼男女の区別なく一切悉くを収容してあますところなし。
 我も円海も貧しきに生れて今は斯くも安楽の居に安んずるの悦びを得たるに徴するも明らかなるべし。されど我等汝等の面前に姿を現はして語るにあらざるにより信ずるを得ざるならん。又我等この書を講ずるも同様の疑問あるべし。されば汝等は常識より判断して理と思うことは信じ、理なしと思はば信ぜずとも可なり。




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