覚者慈音462

           三世と四世論
  
           未知日記第八巻
           第一の巻
           過去の巻        其の16
    第十三    生死は明らむるを得ざるか              
             リョウジャ、セイキョウ貴尊講述



 世に生をうけて天の自然、地の自然に従いて成長しその自然がなすがままにまかせて滅するならばその滅するは自然にして生存者の智能にて何をもなしたるにあらず。生るも死するも其自然にまかせて生きるならば生きよ。死するならば死せよ。そは我等の知るところにあらずとの人の声を我は聞きたり。又賤の女(しずのめ)の語るを聞けば「神様はあるかなきかは知らねども、わたしの身体は此世に生れたるは唯はたらきて居たらば其が私の任務ぢゃと思うばかりで、生くるも死ぬるも私は心にかけたこともなし」と云い居りしを我は聞きたり。汝等学するところはあらざるか。又或人は云う、きはむれど計り難き死後の事など考うるは有閑人の時間つぶしになす仕事にまかせ、かかるいとまあらば一鍬にても土をほれと。是等の話のうち汝等は何れを択ぶや。其は自由なれど我に云はしむれば何れも大悟せる人にして、はじめて口にする言葉ならん。悟らずして唱うともそは空念仏にて机上の空論に過ぎざるなり。然りとせば一般人には生死の明らめは到底不可能なるか。又生死を明らむる必要は那辺にありやについて知りたしと思うなるべし。我等も亦是を語らんと欲するなり。例へば人間の魂を太陽の光と考へて思惟し見よ。光は山を照し川を照らし村を照し市街を照し更に都会を照し更に大海を照し果てなき大空を照しつつあるならん。人生も斯くの如き関係あることを知らば迂闊に光陰を空しく空費することをなさざるならん。
 そもそも人魂は不滅界の末端より不滅界の中心に帰らんとなす旅をなし居るなり。されば小動物と云う村に至るまでは小さき川も低き山も越えしならん。畜生町に至る迄は大河も深山も過ぎしならん。然して人間市と云う大都会に入るまでには高山も突破し茫漠たる砂漠も過ぎて漸くたどりつきたるなり。されば此人間と云う大都市に来る迄の苦労は言語に絶するなやみなりしなり。然して人間市の歓楽郷に酔いて旅するを忘れ居りては旅費に窮して船に乗ることあたはざるべし。然る時は人間市にも永住はなりがたく旅費を求めんがために再び不滅界に引き返へさざるのみならず、然も再び人間市に来る迄は又も辛苦艱難を要するは推して知るところならん。汝等、此苦を再三再四くりかへすを好むや。然らざるべし。此理は今後科学の好転するに従いて明らかとならん。肉体を有する人間は肉体の苦楽を知れど、牛馬の苦楽は知らざるならん。もし彼等の苦楽を知るならば人間に生れしを喜び、更に天界の旅を様々聯想して希望に胸を踊らすに至らん。汝等人間市の見学終りて天界の大海原に乗り出す船の出帆を待つか。但し再び過去の不滅界に引き返へすか。この理を知らば生死の明らめは従ってなし得らるるか否かは判明するならん。即ち人間界はすべての段階を上りつくして最後の階におかれたれば其にて一切は終りなりと考うれば一日にても長からん事を願うは道理なれど事実は決して然にはあらざるなり。此理は追々語るべけれど此講には唯人界より天界に進むべき道あることをのみ説きをきたり。人間市と云う大都会をくまなく見学して軈て天界と云う大海原にのり出す船の旅に移さるるなり。然るに人間市に長く止まりて空しき月日を過ごし居る時は己の行くべき船は出帆して取り残こさるれば余儀なく昔の古巣に舞戻るの余儀なきに至らん。されば早く人間市を見学して己が乗るべき船におくれざるやぅ準備するの必要あらん。この理由を考うれば生死の明らめは自づと悟ることを得ると我等は思うなり。汝等この重大なる意味を深く考慮せよ。

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