覚者慈音461

                                         三世と四世論
  
           
未知日記第八巻
           第一の巻
           過去の巻        其の15
    第十二    生に執着と死の恐怖              
             リョウジャ、セイキョウ貴尊講述


 人は一度生をうけて誰か死を好むものあらんやとは世人の口にする処、否口のみにあらずして行いの上にも現はされ居る処なれば是のみは言行一致なし居るなり。されど生るれば死するは事実なりとの思いは誰もが否まぬこれも亦事実なるべし。この事実あるによって生に執着し死を恐れ厭うなり。世人の多くは死後などは余り問題とはなし居らざるなり。唯生に執着なして死を厭うにすぎざる人は多し。さればこそ自殺者の多きを見るも理解することを得るならん。自殺者は生の苦痛に堪えかねて死すれば安楽ならんとの観念より決行するなりと思うなり。もし自殺者にして生中の苦しみより死後の苦痛は大なりと聞きたらば決して自殺はなさざるならん。宗教者は極楽天国を語る一方、自殺を罪悪として止めあれど 弥陀をたのみ、キリストをたのめば極楽天国の安楽ありとして却って自殺者を誘う手引きともなりたるは是非もなし。されば今一段と考究して一工夫ありて可ならん。是によって推理せば世人の多くは生に囚はれ居て、死を恐るるにあらずして死を厭うに他ならずとも見ることを得べし。さればこそ日本の武士道精神とは死することなりなどあやまりたる教えをなし、いささかのあやまちにも切腹する野蛮行為をなして名誉となす悪思想の流れは今尚存続なし居りて侠客とか称する生命知らずの者もあるなり。彼等の云うを聞けば生れざりし昔と思へば死するは訳なしと。実に理屈は如何にともつくものかな。彼等は事ありて互に剣を交ゆる時己不利とならば、逃げ出すの多きを見ても生には執着か或は死を恐るるかの何れなるべし。是等は本心より生死を明らめ居らざる証拠なれば彼等の口にし居る生れざりし昔と思はばの言葉は理屈に終るなり。されど飄然大悟したる人ならば斯る申訳的なる言葉は口外せざるべし。生に執着するを明らむれば正しく生死は明らむるかと云うに、生に囚はれずして死になじみ親しむは即ち遁世者哲学者の類に多し。又厭世観を起す病的患者もあれどこれは論ずるに足らざるなり。「死神を捕へて見れば生神の、妻と聞きては追いもやられず」とか云へる狂歌を聞きたり。汝等が厭う貧乏神も福の神の妻と聞かば離別せしむるは困難ならん。呵々。
 すべて生を厭へば死を求むる他なかるべし。死を厭うが故に生に執着するならん。兎に角一方にのみ偏しては完全なる悟りを得ること難し。今これを死の恐怖より思いをめぐらせば如何なる結果となるかと云うに死後は生中の如く明らかならねば唯不安に充たされて想像にまかすの他なし。これを確実に知らんとして行者は肉体を犠牲にして難行苦行を重ねつつあるなり。仏教祖釈迦も難行を重ねて道を開きたれど、後輩者があやまり伝へて却って世人を迷はすに至りたり。円海も仏教より進みて修行を重ね短所をすてて長所をのばして天界に至りたり。故に彼は仏教の長所も短所も亦現在のあやまれる説教もよくよく知れり。余事は兎に角死を知るは易く死後を知ることは難し。たとへ正しき説明を受くるとも各宗教者の論説区々となりては何れを択はば可ならんかに思い惑うは当然なり。ここに至って無分別者は死すれば燈火の消えたると同様なりと口にするものあれど、本心より出でたる言葉にあらざることは云う迄もなかるべし。真実を知ることを得ずば不安と恐怖はまぬがれがたし。故に死をのみ考うるとも明らむることは難し。考うれば考うるほど迷いはますのみ。


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