覚者慈音460

              三世と四世論
  
           未知日記第八巻
           第一の巻
           過去の巻        其の14
    第十一    生死に関する論説              
             リョウジャ、セイキョウ貴尊講述

  


 生死に関しては教主及び貴尊、又我等に於ても語りたれば汝等もいささか学ぶところありたるならん。さりながら事実に直面せざれば信ずるあたはざる汝等には、心の底より信ずるは難かるべし。されば是と思はば信ぜよ。非と思はば信ぜずとも可なり。唯我等は参考資料として語りおくべし。仏教者は因縁因果論より地獄極楽を教え、キリストは信ずるものをして天国に至ると教え居れり。さりながら宗教者ならざる我等の論説はその意味いささか異なるなり。所謂いきるとは動にして、死するとは止まるの意味より解釈すれば、朝に起きてはたらくは生に合い、夕に臥すは休み止まるなれば死にすぎざるならん。されば朝に生れ夕に死すと云うとも理なき事にはあらざるべし。昨日生れ夕は死し今朝更に生きかはると見なすときは、昨日の汝と今日の汝は同じからざるなり。さればこの事柄より因果論因縁論が案出せられたるならん。例えばその日一日心傷つけばその夜は安眠なすを得ず、悪夢に襲はれて苦しむならん。是即ち因果応報の資料として取り扱はれたりとも考えらる。即ち人間五十年の生活を昼と見なし、死後五十年を夜の休眠として考うれば、五十年の生活に悪行をなして心に傷かば死後五十年の夢は安らかならずと説きたるならん。是を善因善果悪因悪果と教えたるなるべし。是を我等に言はしむれば因果の理論は別として昼夜理論には全面的に共鳴するなり。何故ぞと云うにすべては不滅と考うれば生死と云うは唯明暗と云うにすぎざればなり。即ち生は明に属し、死は暗として取り扱えば可ならん。是は先にも語りし説なるが太陽と同じ速度にて地球を運行すれば夜は無く、是と反対ならば昼はなしと云いたり。然りとせば昼夜を観察するとき昼夜と云うは迷いなるべし。汝等何故なるかを知るか。ここに二人の人ありて一人は昼のみ歩み、一人は夜のみ歩むと仮定して考え見よ。一人は暗を知らず。一人は明を知らざるならん。この二人に明暗の区を明らかならしめんとせば相方をして互いに逆の歩みをなさしめざるべからず。又昼夜を知らしむるには歩みを止めて居に安んぜしめざるべからず。このたとえより思惟すれば昼夜に関し明暗と云うは唯言葉の区別にて人の心を迷はすのみなり。されば明暗は迷いなるべし。明暗を迷いとせば生死と云うも亦迷いにて生に死あり、死に生ありと説きたる聖者もあるなり。故に生と思うも迷いにて、死と思うも亦迷いなるべし。汝等の生死とおもうは肉体を地上に一時にても長からんを望む生死なるが故に殊更迷いは解きがたし。長く生きんと希むも迷いにて早く死せんと思うも亦迷いなり。生死を源にかえせば即ち空の一事に帰す。




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