覚者慈音457

      三世と四世論
  
              未知日記第八巻
           第一の巻
           過去の巻        其の11
       第八  同化の手引き              
             リョウジャ、セイキョウ貴尊講述


 さてものに対して同化するには何か一定の方法ありやとり質問ならん。是に対して不滅界の習慣より消滅界に適用して最も顕著なりと思うことを教うべし。先に語りをきたる感謝の心、即ち是こそは同化の種子に相当するなり。是が芽を出して拝みとなり、拝みが成長するに従いておもいやりと云う枝を生じ、有難し勿体なしと云う花を開き同化感応の実を結ぶに等しと考へて然るべし。大地にのみ従えばむさぼりの心増し大気にのみ囚はるれば不安の思い増すと説かれあるを汝等も聞きしことあるならん。一方的に囚はれありては感謝の念はうすくして通ぜず。唯本能心の現はるるのみなり。両道合して一体となりここに始めてその本能の力は濃厚となりて出現して感謝の徳は顕著となるなり。感謝とは如何なるものを云うか。汝等は他人よりめぐみをうけて嬉しと感じたるにあらざれは感謝にあらずと思い居るならん。其は感謝の一毛にすぎずして正しき感謝にはあらざるなり。己にのみうけて嬉しと思う心の感謝は私欲の感謝なれば他に恵をうけて、己うけざれば何等感謝の念は生ぜざるのみか、却って妬みの心とならん。故に自己感謝は正しき感謝にあらず。そは感謝の本能性が聊か頭をもたげたるにて、直ちに影を没す。故に自己本位自己中心の感謝は範囲がきはめてせまし。斯く語らば汝等は云はん。修行するは我なり。我を捨てて他人の修行となすとも他人も亦自己に帰せん。然れば同様ならずやと。尤もに聞ゆる理屈なり。さりながら我の語るは自己執着より離れて大なる真の自己にかえらしめよと云うなり。即ち小我を捨てて、大我を求めよと云うなり。汝、病みて床に臥しつつある時、汝の庭園の樹木が汝の友として寸時も離れず。汝の慰めなるを見し汝はその樹木なりしならば如何あらん。我、年中同じ場所に置かれて、一歩も他に出づることなく黙々として他のために花を開らかせ、葉を繁らせ実を結ばせて甘きを喰はせ、四季眼を心を慰めあるに人は我に感謝せざるのみか本年は花はわろしとか稔りはすくなしとか味はすぐれずとか不平のみを与うるとはさてもさても我程因果なるものはあらじと嘆くならん。汝等一個の果実を食するに際しても此果実こそは春は花、夏は青葉秋錦と人の心を喜ばせ、今この結実にて肉体のために娯しみと養いをあたえんとす。我、是に酬ゆるに何を以てかせんとの思いやりにて食せばその果実は生きたるにて死食とはならざるなり。先に語りし泰岳はものを活かして食すと、ミキョウの話せしは是なり。さればこそ他人の半分の食にて彼の健康の倍加すると云うも敢て不思議にあらざるべし。斯く語らば汝等は思うならん。泰岳は愚者にてすべての生ひたちをしらざるにこの思いやりを生ずるならんと。汝等斯る思いを抱くならば我の教えを曲解なし居るなり。汝等一つのたとえを聞きて悉くを其に帰せしめんと計るならば、そは範囲を縮小せしむるにすぎず。我の語りし果実の話を感謝を起さしむる一例として語りたるにすぎず。樹木のたとえによって生ずる心は即ち感謝の念なりと云うにすぎずと知るべし。故に泰岳は常にこの念そなはるによって、凡ての成立は知らずとも一切悉くの霊に通ず。さればこそ彼は常に拝み居るなり。感謝の本質は拝みを導き出すによってなり。汝等は常に拝みすべし。拝みは感謝の表現にして感謝もまた拝みによって表はるると知るべし。拝む心は感謝の芽生にして拝み度しとは成長期、然して拝まずばあるべからずの念に達せば感謝は成熟したるなり。この境地に至ってはじめて自他の区別は全く失せて一体一如の姿となる。ここにはじめて同化の実は結ばれたるなり。同化せしめんとか、同化せんとか考えて彼是思うは唯迷いを深くするのみにて何等得るところはあらざるなり。拝みは神仏にのみ用いる礼儀と考うれば大なるあやまりなり。即ちわが心の雑念を洗う方法なり。一切は平等なればすべてに通じて悉くをたちまち同化せしむる力あるなり。

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