覚者慈音443  テツシン講録  最終十二期の有様は如何    インショウ、ミキョウ貴尊講義

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻


最終十二期の有様は如何          其一
                     その43
       
                     第四の巻
                      
             インショウ、ミキョウ貴尊講述


 最終期に入りたれば肉体にも自づと威厳備はりて、他より崇拝せらるる姿に変ずるかと云ふに、決して然らず。肉体には何等関係は及ばざるなり。世には活仏など称して周囲より祀り上げられて、己も傲然たる態度を示めして勿体ぶる邪宗教者もあれど、彼等は周囲の人の造り物にすぎざるなり。肉体的観察する弊風あるによって人は美麗なる衣装を望み、又宗教者は美はしき器具を周囲に飾りて其等の力を借りて自尊心欲求を満足せんことを得んとして斯る事を計るにより、ここに金銭財宝の必要を生じ、ために欲望を誘ひ又は欲望が身を害し破滅を導く結果となるなり。されば真の仏となりたらば肉体に美服を飾らずとも、やがて霊気は肉体よりほとばしり出で、一切衆生を照らす光明となりて輝くなり。故に悪魔は近寄るあたはずして遠ざかるなり。
 十二期の行進むに従ひ、徳は次第に備はりて衆生を救ふ力いよいよ顕著となるなり。所謂仏とは覚者なり。悟りて法を説くによって、仏は法を説く故に仏と、僧は称し居れり。されば活仏と云ふとも可ならんか。されどそは理屈にして事実は然らず。活菩薩活如来等はあらざるなりを知るべし。
 そは別として行力は益々進みて、やがて一度我に来るものあらば、彼はその霊の徳に化せられて種々の悩みは悉くみな霊に化せられて救はれん。十一期末悪鬼に悩まされて来りしもの、我を離るれば又なやませられたるに引き換え、最終の半ばともなれば、我を離るるも再びなやませらるる恐れなし。その訳は一度結ばれし霊徳は永久つながりてほどけざる力ある故なり。斯くして娑婆に肉体置かれある間、一人にても多くの人を導き救ひ、軈て天よりかへり来れとの命を待たば、天爵は備はり得られたるなり。是にてすべては果されたるなり。

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