覚者慈音435

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻



第十期至らば如何なる変化を生ずるか    其一
                     その35
       
                     第四の巻
                      
             インショウ、ミキョウ貴尊講述


 既に霊の威徳によって己自らの個性を認識なし得たる以上、己の分野の何なるかを推知せば、是にて人間の道は完全に歩み終りたるなり。世人は我を知るは我なりとの言葉を常に口にして事実、我の何なりしかをも知らざりしが、今こそ正しき我を知りて人爵を受けたるなり。今よりはその使命を果して大切なる天爵を受くべき任務を果さざるべからず。天爵を受くるには如何にせば可ならんか。是は難しき業にあらず。火なれば熱を与へ、水なれば霑(うるおい)ひを与ふる如く、己の分野に従ひて行動すれば然るべし。恰も香木が床柱を厭ひて厠の柱に甘んずるは人爵を捨てて、天爵を全うしたりと世人は考ふるならんも、そは然らず。香木は人天爵一体の使命を全うしたるなり。即ち香木は釈迦.キリストに匹敵する任務をなしたりと知るべし。
 十期の行に入りたらば人爵に偏らず、人天爵一体の拝みとなるによって左右何れにも偏らぬ拝みとなるなり。故に従来の如く訴へ願ふと云ふ拝みにあらずと知るべし。従来は肉体より精神拝と進み、今は霊的拝に進みたれば、今後は逆に霊より精神に、更に精神が肉体と一体となりて行動す。故に身心は統一せられて霊に和する結果、霊心身三密具足して神に順応す。是即ち四満の境地に進みたれば、水も洩さぬ睦みの世界はここに初めて現出したるなり。世人の中には夏には避暑地に遊び、冬は避寒地に、春秋は花に紅葉にうかるるを最大幸福と思ひあやまりて、斯る人は前世に於て如何なる善業を行ひたるにや、果報者かなと羨む人は多し。是を我に云はしむれば、斯る人は最大の不仕合はせにて哀れなる人なりと。何となれば斯る人は肉体の安楽を追ひ求めて娯楽を重ねたる結果、身を害し心は傷き、果は光明の影を失ひて冥界に陥るなり。所謂「里の日は暮れて、くるわの夜明けかな」と云ふに等し。故に親苦労、子楽、孫乞食の比喩の如き結果となるによってなり。其のみならず、彼は前世に於て決して善業をなしたる報にて斯る境涯に置かれたるにあらざるなり。此理由は後日折りあらば因果論にて更に論ずる事としてここには語るを避くべし。
 人間の幸福は霊の威徳に浴するを得て初めて味はひ得らるるなり。或貧しき人朝夕楽しく暮し居るを見て、何が其程楽きかと彼に訊けば、彼は答へて、汝はなにを佐程苦きかと云ひたりと。即ちこの貧者は苦みを知らざるにより、すべてを楽みとなし居る覚者なり。すべてを空なりと云へる教へは、僧侶のすべてが口にして、衆生に説法し居るにも不拘、緋衣金襴の袈裟を求むるは何故なるか。世の中はさとりを語りてさとりを知らず。迷ひに迷ひて其より其へと道を求めて何物をも得ずして終る人は多し。




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