覚者慈音432

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻


第九期の拝みは如何にすべきか       其一
                     その32
       
                     第四の巻
                      
             インショウ、ミキョウ貴尊講述


 
 第九期の拝みは慈悲の拝み、仁の拝みとなるなり。此拝みは求むるにあらず、又頼むにもあらずして唯拝みするなり。初心の頃の拝みに似て全く異なる力を備ゆるなり。即ち初心の拝みを一越とせば九期の拝みは第二の一越に匹敵すと考ふれば可なり。然して九期の拝みは慈悲に合ふ拝みなれば、頼むにあらねど自然に頼みのはたらきとなり、願ひにあらずして願ひに合ひ、望みにあらずして望みに通ずるはたらきと知るべし。一度拝みせ万般に通ず。是即ち仁の徳なり。例へば人間同士ならば何事か膝を屈し、頭を下げて要件を依頼せずば聞き届けざるべし。然れども神は頼む頼まぬに不拘、救ふべきは救ひ、又棄てざるべからざるは捨て給ふなり。世人は我子の悩めるを見ば他より頼まれずとも救はんと努力するならん。
 神は一切衆生は我子なり。香木が厠の柱となりしは慈悲のちからなり。仁の拝みなり。
大凡人界の道理と神界の道理とには斯くの如くの相違あることに留意せざるべからず。人界にに於て正なりと考へらるることも、神界には不正となること多し。ここに人爵と天爵とには甚だしき相違あるなり。例へば人に金をかりて期日に至りて返金せず、其事情を打ち明けて期日の延期を頼み聞き入れられずば、彼は人情を知らぬ鬼なりと称して逆恨みする等は、一般世人の習性ならん。是を神界にて是非を区別するならば借りたる人はたとえ如何なる事情ありとも、貸し主の意志に従ふは順当なり。然して一度は彼の意志に任せ再び彼に求むるなり。彼、聞き入るるか聞き入れざるかは彼の心任せとなるなり。彼は鬼にはあらず、返へさぬは悪し。斯く語らば世人は云はん。神は弱きを助けず、強きにくみするかと、然らず。神の法則は金鉄よりも尚かたし。たとえ事の善悪に対するもみな其々に定められたる法則ありて、善には善に処する法則あり。悪には悪に処する法則あり。法則とは即ち約束にして約をたがへるは法則を守らざるにより、弱き強きに不拘誡め叱りしに過ぎず。是にくみするとか、或はくみせずとかの問題には触れざるなり。是は初心者の為に序でなれば教へをくなり。故に人は約したる事はその事柄の如何に不拘たがふことなかれ。
 さて行は進みて第九の半ばに達しなば、慈悲の徳は現はれ、初めて精神拝時代の行力は復活し来る。其力の現はれは以前と異なりて強きこと旧に数倍するなり。是迄五回かかりし事は、わずか一回、事によりては行力を用せざる利目は現はるるにいたる。是即ち慈悲の徳なり。第九の末期に至らば既に行力の用なくしてすべて来るものを救ふの働きとならん。例へば今迄病に対して手を触れざれば治癒せざりしに此期に達しなば手を触れずとも治癒すべし。故に百千の人を一時に救ふことを得。是に関して注意を要することの数々を列挙して迷信を打破せんと思ふなり。  


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