覚者慈音422

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻


第六、第7,第八期の拝みについて     其一
                     その23
          
                     第四の巻

                      
                    インショウ、ミキョウ貴尊講述



 第七期に進めば霊の働き余りに強きにより、今迄体験せざりしことが感ぜられて其が我父なりしか、其が我母なりしか、今迄何故知らざりしかとの念にかられて、うたた今昔の感に打たれて唯歓喜に胸を打たれて勿体なしとも忝なしとも喩え難き思ひに、一種名伏し難き日夜を送るに至らん。斯る境地に達しなば最早肉体の拝みは全く一変して精神拝に充ち満つるなり。その精神拝によって心のくもりは益々其度を減じて晴天の如く化せられ行きて太陽は赫々と輝く。故に今迄暗黒に出没して悪行を恣になし居たる悪鬼は慌てふためきて何処ともなく影を没す。故に肉体の苦悩は消滅して快活となり、従来苦痛と感じられ居たる事柄はすべてを昔語りとならん。例へば従来迷信なりしとして顧みざりし現象も、此期に於ては正信なりし事に気附き、是と反対に正信として持続し居たりし事が迷信なりしため、修養の妨げとなり居たりしに気附く事も多かるべし。八期の拝みに進むに至れば全く肉体苦を度脱して全く精神拝に突入す。ここに至って精神拝の人となりたるにて所謂往生したる形なり。是を仏教にては到彼岸と名づけて波羅密の行を達成したり云ふなり。斯岸とは肉体にして彼岸とは精神を意味す。然して精神拝より肉体を顧るを現蘇と名づく。肉体より精神に至るを往蘇とも云ふなり。世人はよく云ふ、自らの行ひは自らに解し難し。故に他より教へられずば反省せずと。即ち精神拝より肉体を見れば真相は判明す。されば肉体拝は往蘇回向に合ひ、精神拝は現蘇回向に合ふと知りて可ならん。
 体は人爵に憧れ、精神は天爵を求む。されば人間の人間たる所以のものは人爵のみにても亦天爵のみにても全からずして、両道備はりてここに初めて人の分類を整へたるなり。両道伴ひて人生を全うして初めて神の世界を知る。されば人爵とは何か。又天爵とは何かを思惟せよ。日本人の唱ふる公爵伯子男(華族)は果して人爵の最高なるか。尉佐将元帥(軍)又最高なりや。学士博士又最高なるか。そは最高の人爵と見なす事も得るならん。然りとせば世人の悉くがその境涯に至らずば人道を全うしたりと云ひ難きか。我等が語る人爵の理論は世人の考ふるとは稍その趣を異にす。
 例へば人には皆其々個々に有する職分あらん。その職責を全うして初めて人爵は与へられたるなり。医者は政治家になりて世相の病気を治癒せんなど称へて本分を顧みず。然して大臣なりたりとて其は人爵を全うしたりとは云ひ難からん。斯る人は尊むに足らざる不心得なるべし。又富貴の患者には足を運び卑賤の患者には近寄らざる如き医者は人爵を得たる人にあらず。又得られざる人なり。斯る医者は富を求めんとする人なれば、生涯を業によって福に換えんとなす誤解者にして、すべて世人は此種に属する人の多ければ人爵は得られざるなり。又天爵とは如何なるかを云ふかを知る人は稀なるべし。
 世人は釈迦キリスト孔子その他聖人智識等のみが天爵を得たるかに考ふるならん。もとより彼等は天爵を得たるに相違なし。されど人間全部が斯る人になり得ざれば天爵は許されざるかについて深く研究せざるべからず。釈迦も人なりき。キリストも然あるなり。名僧智識も人なり。然りとせば世人は悉くみな人なるべし。故に人と生れて天爵にあづからぬはなし。然るに世人の多くは人爵にのみ拘泥して、其を天爵の如く誤りて修養せざるにより折角授けらるるべき筈の天爵を受けずして、空しく終る人の多きを遺憾として我等は是を知らしめて、授けられしめんと尽力なし居るなり。世人の多くは人爵すら受けずして動物性にて終るも多きに、ましてや天爵の如何なるを知ることを得んや。光陰は速なり。一生は一睡の夢にすぎず。早く本然の姿にかへり、動物性より度脱せんことを!
 



 

×

非ログインユーザーとして返信する

あと 2000文字

※は必須項目です。