覚者慈音418

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻



第六、第7,第八の拝みについて        其一
                     その19
          
                     第四の巻


           インショウ、ミキョウ貴尊講述


 肉体的信仰より精神的信仰は芽生えるも漸く二葉を出せし頃よりは、第六期に進みたるなり。此期に至って初めて人間に生れし喜悦を感ずれば、人と生れて仕合はせなりしと感じ、又些細の苦みに堪えかねて人間などに生れしことを悲むは一般人の思ひなるべし。斯る浅薄なる思ひに悩まさるる間は到底人間の生存の何故なるかを知らざる故なり。明けても暮れても日々同じ事ばかりして喰ひては眠るのみ。人は何を楽みに生きて居るのか。一家の中にも何時も機嫌のよい顔をして居られず。近所の交際等にも良否ありて睦むと背をむけて居るあり。人は何の為に生きて居るのだらふかと話居るを我等も耳によく聞く処、斯る人々にこそ人間の尊きを教へて共に生きる喜悦をわかたざるべからず。是を知らしむるには如何に巧みなる筆舌を以てしても其は木の葉を水に流すに等しくして、何等の効果もあらざるならん。されば是等の人に千万言費すとも詮なければ己自ら体験より割出して、彼に自覚を与へずば彼は悟ることを得ざるなり。己が体験とは即ち拝みせば、彼も何時かは法悦歓喜に胸踊らす日の来るは明白なり。人として人の何なるかを知らずして一生を終るほど、是に勝る不幸やあらん。世人は然とは考へざるか。
 第六期に至らば精神は実の親なる霊を見、又一方には肉体の我子を見るによって、親の尊きを感じ、子の愛を正しく覚ゆるによって、人と生れし喜びを正しく知るによってなり。所謂子を持て知る親の恩の境涯に類するなり。此境涯に入るとき親あり子ある真の姿を味はひ知るによって、心の底より有難しと云ふ思ひに閉され満たさるるなり。第六の境涯を音楽にては双調と云ひ、一二支にては巳の部に喩えたり。巳とは魅力の意味、双調とは二道二調子を意味すと考へて然るべし。
余事はとにかく、六期の頃は肉体に関しては肉体に祈り、霊に関しては霊に祈る。二道にわたる配置なるにより未だ肉体にも属せず、霊にも従ふを得ざる謂はば二股膏薬と云ふ俗言に似たる拝みなりと知るべし。故に此期の拝みは最も大切なり。即ち自力とも他力ともつかぬ拝みとなるによりいささか此期には迷ひを覚ゆるなり。されど此期は誰もが経験する境涯なれば決して不安の迷ひ心を起さず、誠心誠意拝みを持続せばよし。

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