覚者慈音417

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻



拝む修行の第五の階について        其一
                     その18
          
                     第四の巻
           インショウ、ミキョウ貴尊講述


 さて前に語りし如く内面的自力拝より次第に向上して、外面的他力拝に及び来らば、何を拝するかとの不審を覚ゆるならん。即ち今迄は引力性の拝みにして、今後より圧力性拝となる相違なり。引力性とは修養を意味し、圧力性とはその修養したる力を現はすことを意味すると知るべし。即ち学業を終へて世に処せんとなすに等しく、又先に語りし旅装を整へて旅立んとなすに等し。故に今迄の拝みは自らの為にして、今後の拝みは他の為に尽くす業なりと思ひて行ふべし。自とは何を指し、又他とは何を語るか。曰く、自とは肉体を示めし、他とは心を現はす。所謂是によって身心二道に通ずるなり。即ち是より精神の芽生えが肉体より生じそめしと思ふべし。故に未だ肉体の力に依らざるべからず。よって此期より肉体七分、精神三分の頃なりと思ひて修養すべし。此期の頃にはややもすれば肉体感情に走りて精神をおろそかにする傾向あり。是にかかる時は其心して拝みせざるべからず。
 例へば人より事を依頼せられて、其人の為専心尽くしたるに不拘、其人に裏切られて其要件が水疱に帰したりとせんか、斯る場合精神的ならば己の至らざりし事を詫びる拝みをなせど、其が稍もすれば肉体的に引き戻されて内心安からざる拝みに変ずること多し。すべて思慮ある人なりとも平素他人に接する場合、彼は好まざる人なりと思へど口には斯くとも出さず、如何にも好める人に接する動作をなすは是肉体的精神的の二重二方に働く故なり。
 第五期の姿は此種とは全く異なりたる二様の働きなることは験したるにあらざれば全く知る由もなけれど、例は前述の如きに類すと知らばうなづかるべし。此期に達せば前述の如く依頼者に裏切らるるも肉体的に引き戻されたりとも安んらぬ心、否おだやかならぬ気持ちなどは起らざるも、或一種の考案力を生じ、己が任務を至らざる拝みを覚ゆれど、そは寸時に消滅するものなり。

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