覚者慈音416

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻


拝む修行の第五の階について        其一
                     その17
          
                     第四の巻
           インショウ、ミキョウ貴尊講述


 第五の拝みに入りて此処に初めて感謝の拝みに変ず。すべてを感謝する拝みなるにより従来の拝みの如く、肉体的の拝みにあらずして精神的の拝みとなる故に、外面に現はれ来る拝みなれば、従って外を拝む形となりて内外一如となさんとする行法なれば自にも通じ、又他にも通ずるなり。故に自らも益し、他をも益せんとの拝みに変じ行くなり。
 我、斯く語るとも世人には容易に理解するを得ざるべし。百聞一見に不如、行じ見るべし。然らば自づと理解するを得べし。我等は喰ひて味を知るによって勧むるなり。如何に美味なりとも喰はざれば無味なり。さらば世人は先づ食して我と共に美味を語らん事を、我は望むなり。
 そはとにかく、第五迄を仏教にて説明すれば自力の拝みに合ひ、第五よりは他力の拝みと思はば察するを得るならんと思ふなり。さりながら宗教の自力他力とは相似て等しからざるなり。世人は拝むと云ふに対して特殊の業にの如く思ひて、何か拝みによって求めんとの心より宗教くさく考へて家庭の業と切り放して修養するは悪し。拝みを家庭に取り入れて朝夕の業務に加へて行ふべし。朝夕人と顔を合はせて挨拶を交はす。是拝みなり。又人より仕事を手伝はれて感謝の言葉を贈るも亦拝みなり。故に拝みを特殊の扱ひにする勿れ。商店の主人は客に礼をおくれど、客は礼せざるは何事ぞ。斯る拝みは片拝みなり。主、礼を以てして、客、礼をおくるは当然なり。世の中は斯る偏頗あるによって商店の礼は口先の礼にて通ぜざるなり。客又然り。故に世は欺き欺かれ、是は一般習慣となりて巧みに欺くを賢者なりとて褒めそやす不心得者すら現はるるなり。主客相むつみて相互礼より流るる真心あらば、欺く心の生ずるものにあらず。一家に於ても亦同様なるべし。人もし我を拝するあらば、我は神にも仏にもあらず、縁起でもなき事をする人かなと云ひて怒るは一般世人の心持ちなるべし。されば世人は神仏ならでは拝むことにあらずとの念に駆られて拝みをなすことは容易に行はざるならん。有難うと云ふ言葉は拝みと同様なりと知るべし。故に他人我を拝せば我も亦拝せざるべからず。是魂と魂の結合にして所謂霊と霊と疎通したる姿なりと悟りて行ふべし。されば神仏を特に拝む必要は要せざるなり。拝む心を備へ居らば神は是を知るによって得に拝まずとも守り給ふは論ぜずとも明白なるべし。天理に合ふ故と知るべし。怒る心ををししずむると云ふも拝む心なり。又人は明らめは大事なりと云ふも、即ち明らめの拝み心より現はるる現象なりと云ふも、決して過言にはあらざるなり。すべて世の中の善悪は拝みによって如何にとも変ぜらるるにより、最も大切なるは拝みなりと心得、内面的にも外面的にも一括して行はば可なり。




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