覚者慈音409

テッシン講録再続篇 下      未知日記第七巻



拝む修行の第三の心得           其一
                     その10
             
                    第四の巻
           インショウ、ミキョウ貴尊講述


 暗き処には不善者ひそみ、明るき処には善者集るとは世人の諺なり。暗き心には病あり。明るき心には健康宿るとの意味なるべし。是を反駁して病めるが故に暗し。健康ならば如何でか暗からんやと。世の中は常に斯くの如く、左右に分るるなり。依って争闘は断間なし。真に悲しきことならずや。すべての事柄の左右するは摩擦なり。摩擦はすべてを磨く砥石の如くなれば、或程度心を磨く摩擦はあって然るべし。さりながら程度をすごせば却って摩滅するの害あらん。如何に磨くも差支なきは魂なるべし。是のみは程度と云ふもののあらざればなり。
 前巻に於て語りし如く、拝むと云へる修行は魂を磨く布なれば是によって磨き磨かば、光沢の度いやが上にも加はり行きて、千万億里と際限なく光彩を放たん。
 さて拝む行の第三としての心得として注意する事は拝む心の持ち方なり。是には先づ一般世人の拝みかたは尊崇の念とか、或は尊敬の念とかを考ふるの余り、其が程度を越して暗き心にて拝し居るを我等は見るなり。故にこの暗き心を除去して明るき思ひにて拝すべきことは肝要なり。一例をあぐれば葬礼を拝する時の気分と、或は他より婚礼の賜物を受けたる礼の心とは表裏の相違ある如く陰鬱と明朗の差あるならん。拝む心は常に明朗ならざるべからず。是について玄奘三蔵が西遊中、乞食に施しをなしたるに、彼は感謝の意を示さざるに注意を与へしに、乞食曰く、「汝は施しをなして何故感謝せざる?そは逆意見ならずや」と云はれて、さすがの名僧も顔色なかりしと云ふ伝説あり。真偽はとにかく修行する者としては実に味ふべき話なるべし。施す者に感謝せよとの言葉こそ拝みする者の大切なる心構へなり。他人に施して其人より感謝の言葉を贈られなば其にてブラス、マイナス、ゼロとなる。されど施して感謝し、施されて感謝の言葉を贈らず、其施しを永久に保存するならばプラス、プラスとなり、ゼロとはならず。故にその施しは死せるにあらずして生きたる恵みとなるなり。
 一般世人の喜怒哀楽と云へるは一時的にて永遠ならねば一時の怒り、一時の喜悦は唯一つの斑点にすぎざる故に心の傷となるのみ。謂はば白紙に喜怒哀楽の模様を深めたるにすぎず。何の価値もあらざるなり。彼の乞食が法師に向って他に施しをして感謝せざるかの言葉をよく翫味して拝む心の湧き出でたるに感謝せば、その感謝は永久となりて美点を残すべし。母は我食を子に与へてその喜ぶ顔を見て己食したる以上の喜びを味ふにてはあらざるか。世人は此心して拝む事をなさば、自他共に感謝の拝みとなるは当然なるべし。其と反対に世を呪ひ、世を呪ふ拝みならば、如何にと云ふに、怨み心にての拝みなれば裏面に潜在する良心、即ち霊より支配されある心は働くによって、ここに二つの心が常に争闘を続くるによって呵責はまぬがれずして肉体の労苦は増し、衰弱を伴ひて悪鬼の姿と変じ、霊は悪道の心に染みて是を殺さず。故に拝みの力は呪詛(じゅそ)と化して呪はるる者の心に喰ひ入り、果は呪はるる者、共に破滅して此世を去りても残るものは悪霊と変じて永久の苦を残す。是呪詛の苦患と云ふにて、決して神の業にあらず。己自らが最初より求めたる苦患なれば、その希望は達せられたるにすぎざるなり。されど斯る業は神の法則にあらざるにより是は宙に迷ひて気に化して果は消滅せん。とにかく二心の拝みはなすべからず。其は美はしき拝みにあらざればなり。例へば哀れなる人を救はせ給へと云ふ底の拝みは美はしく思はるれど是は裏面に悪き者を滅し給へと云ふものを潜在せしめ居るにより二心に終るなり。即ち救はせ給へと祈らずとも神はすべてを知り給へばなり。故に唯訳もなく泰岳の如く拝むべし。要は是にて足る。何となれば拝みは一事に限らず広きにわたりて拡かり通ずる法なれば、初心の人は先づ其心より錬磨して理論を会得するに従ひて、更に次より次ぎへと拝む力を増進せしむるなりと知りて、先づこの段階を突破すべし。拝みは是のみに止まらざるなり。


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