覚者慈音400  テッシン講録  未知日記第七巻  仙人の修行  ミキョウ貴尊講義

テッシン講録 未知日記第七巻
仙人の修行  
                その1
                第三の巻

                ミキョウ貴尊講述


 これは今から百五十年ほど前、江戸時代の元禄年間、円海大師が山に入られ修行された実録です。信仰に入らんとする者にとって非常に大事な箇所です。じっくりとお読み下さい。連載は二十回ほどの予定です。上記の画像は役行者(えんのぎょうじゃ)の写真を拝借しました。役小角は7~8世紀に奈良を中心に活動していたと思われる、修験道の開祖とされている人物です。「役小角(えんのおづの)」がその本名であると言われ、またほかに「役優婆塞(えんのうばそく)」、「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」、「山上様(さんじょうさま)」などの呼び名があります。同じく円海大師も大峰山中で山岳道を修されております。
 
自覚したる信仰と教えられたる信仰との相違について


 他より勧められて信仰に入る者の多くは一種の欲望と、又一種の好奇心に囚はれて其道に入る人は多し。されど己自らは何事かの動機より自覚的信仰に入る者は稀なるべし。自ら覚り悟ることは容易の事にあらず。他人より見聞したる事は一時は然あるかと思へど、其は寸時に消滅す。己の本心より悔ひ改むる事によってこそ物事は成就すべきは誰も知り得てなす事を得ざるなり。否なさんと思へど、術を知らざる故なるべし。
 大乗仏教として自他共に許し居る禅宗の山門には、飲酒山門に入るを許さずとの柱を建て、外を誡め、寺内の庫裏には酒に顔を赤く染めたる指導の任にあたる僧も少なからざるあるは大悟したる僧なるか。彼は曰ふ。酒は飲むとも心を乱さずば禁酒の要なし。これ大悟の徳なりと云ふならん。口は調法なるものかな。理屈は人を迷はす毒薬なるべし。悟りと云ふはむづかしけれど悟りて見れば訳も無き処に思ひがけぬ大なる発見をなす事を得るものなり。その覚りを与ふるは自分の心に及ばざる時初めて底より現はれ来る霊の威徳にて解決を与ふる故なりと知るべし。座禅して公案工夫するは、其公案の問題を解決せんが為にあらずして霊を求めんが為なり。私(われ)、先に語りたる我等の門兄泰岳と云へる者は、生来世間より愚物と云はれたる人なりしなり。然るに彼は行力も衆人に優れて行者の上位にをかれ多くの徒弟より敬はれたり。多くの徒弟は彼に教へを乞へば、彼は唯知らずとのみ答ふるのみなるに、其にて満足すべき回答は得らるると云ふ不可思議なる法力、不可思議なる天分を有する人なりき。即ち彼は霊的信仰の人にして精神信仰肉体信仰の人にあらず。生れつき霊的信仰の持ち主なりしなり。所謂霊的信仰によって精神及び肉体共に支配なし居るなり。
 今霊的信仰を語るに先だち、彼の日常生活の事柄を語りて行道の参考にせん。彼泰岳は幼児と殆ど異なる処なき人物にて一句を教ふるに百度を要する程なり。然るに一般の人の知らざる事を知ると云ふ世にも珍らしき人にして、如何なる尊き仏像も拝せず、然るかと思へば人の眼には見えざるに平伏して拝すと云ふ不可思議なる行為をなせど、師の坊は彼に対してはなすが儘に任せて決して誡めし事もあらざりき。 

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