覚者慈音399

未知日記より  帰途案内記   セイキョウ貴尊口述


人が死んだらどうなるか  死後の魂の往く道


 魂の緒の全く切れたる後に於てこの三種の相違あるによって、
天界に運ばれ来る者、みな其々程度に応じて居を異にするは、是又当然なり
と考へざるべからず。霊は魂の力の程度を知るによって、その程度に応じて
運びをなし居ることも、前説によって察せらるるならん。浮住界に長く止まりて、
種々様々な苦みをなし居るとも、霊は離れず。さりとてその苦みをのがれしめ
んとはなさざるなり。前書にも語り居る如く、霊は善にも従ひ悪にも従ふ。悪人
が善に化すれば霊も善に化し、悪人なりとも善人なりとも、その程度に従ひて
霊ははたらく。されど魂には苦痛を感ずれど、霊には苦痛はあらざるなり。
浮住界に於て永久迷ひ居らば、霊は共に是に順じて離れず。故に霊の力に
よって永久死滅せざるなり。死滅せざるが故に、永久の苦はまぬがれざる
ことも推して知ることを得ん。故に一旦この魂が悔悟して浮住界に於てめざ
むれば、忽ち霊も是に応じて安楽の境涯に導くと知るべし。
浮住界に於て前非を後悔なして正道につかば、霊は是に応じて安楽の処に到
らしむる力を有するが故に、この霊に有する特殊の力が働らきて、魂は悔悟
することを得るも、是即ち霊の威徳によるなり。苦みを味はひて唯苦みに悶え
居りては、何時かは覚むる事あらん。此事あるによって我等肉体を有する間に、
修行しおかずば魂の緒切れての後の修行は、至難なりと教へしも是なり。
浮住界に迷へる魂は、苦みを苦みとして悶へ悩むのみにて、悔悟して己が
非を覚る事を知らざる魂の余りに多きを見るによってなり。浮住界に於て斯
かる苦しみを得たるも、何か前世の罪ならんと悟る事を得ずば、到底此苦
患を脱すること至難なる故なり。修養修行なき魂は唯苦むのみにて、その
原因をたしかむる力を具へ居らざるが故に、悩むのみにてさむる事をせず、
永久の苦に悩さるるのみなるによって、我等は肉体の有する間に、修養修
行して持続魂に化し居らば、たとひ浮住界に置るるとも、前世の原因をさと
りて悔悟する力備はり、その力によって、斯くは教へ居ると承知せよ。」




たとひ神を知らずとも、自然に順応して人道全きを得たるものならば、
神を知らずとも是等は浮住界より如意界に移され、更に又他の場所に
於て修養し、然して魂の稔り完全になりたらば、又界を変へて其々到る
べき処に移さるるは云ふ迄もなし。故に信なきものと雖も人道を正しく
渡り居らば、其は自然に順応したるものにて、信の力は表面に現はれ
ずとも、二葉を出して最後は稔りを得るに至ると思はば、要は人道を
正しく渡るに不如との結論となる。然るに人は肉体に重点をおくに
よって、人道を正しく渡る人は少なし。大抵は横道冥道に迷ひて自然
より遠ざかる故に、浮住界の苦はまぬがれざるなり。是等の事柄より
宗教の必要に迫らるるなり。
然るに宗教の多くは人心を迷はすのみにて、正しく人道を導くことを
得ずして、却ってその宗教がわざわいとなりて迷信妄信を誘発し、
為に浮住界を賑はすことの多きは真に遺憾の極みなり。宗教を信じて
信の力拡大するとも、誤たる道を踏まば、その信の力の為に却って
苦をまねく事多し。故に宗教は選ばざるべからず。
我等の見る処には宗教者の教へ導き正からざるが故に、浮住界の
苦をまねき居るもの夥しくあるを見て、実に憫を感じ居るものなり。
信仰の力はきはめて大切なり。されどその信の力が迷信とならば、
身を亡ぼし魂を傷くる結果となる。真に恐ろしき事なり。其は兎に角
第三の場合と雖も、神を罵り己が智慧に誇る如き人は、正道を歩む
人にあらざるが故に、勿論是等は浮住界に苦みて、使子の手をのが
れて尚も苦みを重ね居るもの、是又少なからずあるなり。世人は肉体
を有する間の苦みを、長き苦みと思ふは誤りなり。又肉体の苦みに慣
るれば、他より見る程の苦みとはならざる事も多からん。されど浮住界
の場合の苦みは、習慣性の苦みはあらざるなり。肉体の苦みは或る場合
麻痺状態となれど、浮住界の場合の苦みは度を重ぬる程猛烈となり、何時
かは失はるるものにあらずと知るべし。故にかかる場所にて苦まんよりは、
肉体の苦みの短き間に、滅後の苦みをうけざるよう修養して正道を歩むに
不如と、我等は世人に注意なしをくものなり。されど世人は我等の説を否定
するならば其れにても可なり。
我等は信不信に不拘、ありのままを伝へて世人の参考に供しをくのみ。
厭ふものを無理に導かんとはなさざるなり。是は空なるが故に、実を伴は
しむることを得ざるが故に、余儀なく斯くは語り居るなり。我等の語り居る
説を聞きて、世人は誇大に吹聴し居ると考ふるならん。されど事実はしからず。
我等の語り居るは大海の一滴の水にも及ばざることを語り居るにて、事実を
如何に世人に知らしめんとはかるとも、筆舌の及ばざる程、宇宙は広大無辺なり。
まして全宇宙を語り尽くすことを得んや。
前巻にも語りたる如く浮住界には、種々様々の動物魂等々集り来りて、
争闘の絶間なきことを語りたれば、世人は既に承知なし居るならん。
魂の緒全く切れて如意界に移され、ここにて新しき修養をなし、
軅て選魂所に移されてその所にてその魂は、其々程度に応じて転界を
許さるることと知るべし。前巻に語りたる多くの魂屑の蝙蝠界に移さる
る様を語りたり。是等は選魂所に移されたるにあらず。如意界と浮住界
の間に於て、使子達のあつめ来りたる魂をミキョウ達が選魂所の仰せを
受けて一括して是を魂屑として投下なし居るにて、謂はば如意界と浮住
界の間を掃き浄めて、埃を捨てたると同様なりと知らば可ならん。所謂
魂屑とは埃の如きものにて、是を浮住界に置くことすらなさざるなり。
然からば浮住界に集まり居るすべての魂は、如何なる結果をもたらすや
と云ふ質問をなすならん。この所には多くの使子達集まりて救はれるも
のは救ひ、救はれずしてさまようものは救はるる時節到来する迄、此処
にすてをきて争闘をなさしめ居るにすぎず。使子達は救はんとして近寄
れば、彼等は恐れて逃げ惑ふ他術を知らざるなり。
浮住界と如意界の間に集り居る魂は、大抵善良なるもの多くして、
悪魔に虐げられるもの少なし。されど是等の中にも空中楼閣を作りて、
その所を天国とも或ひは極楽浄土とも思ひあやまりて、住み居るものも
尠なからず。如意界に移されてその処にて空中楼閣を聯想すれば、
直ちに如意界をはなれて浮住界と如意界との間に運ばれて、此処にて
望みの空中楼閣を作り居るものきはめて多し。斯くも転界する迄には
種々様々の経路を辿らずば、目的を達することを得ざるなれば、唯恐
怖心を起さず我等の説をそのままに信じて、日々の業を怠らずば軅て
は望みを達することを得ん。徒に一生を無意義に過ごしなば、結果は
無意義に終る。
世人は神を人体と同様の関係の如く考へて、肉体を想像するが故に、
真の神を認識することを得ざるなり。肉体を有する神ならばその神は
限度を有す。形を聯想して神を考ふる故に、求むる神は錯覚的の神
にすぎず。世人は神の姿を如何に聯想すとも解することを得ざるべし。
されど神を追い求め一歩一歩近より居るなれば、明らかに神を知るこ
とを得ん。故に唯神の存在を認めて、唯己が眼に映らずとも神はあり
との念を強うして、信仰の度を高めなば大なる神の栄光は汝に輝かん。
汝等は目標を定めて然して後にあらざれば、その処に行かんとはなさざ
るが故に迷ふなり。されば神と云ふものの存在することを認識して、
その神は遠からず又近からずとの念を強うし、我は如何にかして神の前
に至らんとの思ひを強くし居らば、其れにて目標は定まりたるなり。斯く
して己が意を強くし、眼に見えねど耳に聞えねど神はあるなりとの心を
離さず、方向は何処如何なる所など考ふるの要なし。唯神はおはすと
の思ひを貯へ居らば、其れにて方向は定まりたるなり。
その理は空は大自然なるが故に、何処如何なる処にもはたらきは絶ゆる
ことなし。はたらきの絶えざる処は、終始の区はあらざるが故に、目標を
定むるの必要はあらざるなり。かくも微妙なる力を有する空の世界こそ、
汝を導く順路なりと知らば可ならん。修養修行して此説をさとる力まで養成
せずば、到底天界は望まれ難からん。」



「全く魂の緒切れて離脱なしたる魂は如何にと云ふに、是には三種の異な
れる経路あり。一つは肉体を有する間に完全にさとりたる者、又一つは信仰
ありても未だ完全なるさとりを得ざる者、更に今ひとつは信仰全くなき者の
三種あり。先づ是等の内、信仰全くなき者の有様より語る事とせん。仏教
信者の中には人死すれば四九日は屋根の上と云ふ教へを聞きて四九日の
間は其家の屋根の上に魂は迷ひ居るものと思ひて、其間は燈明を絶へさ
せず回向なし居るを世人も知るならん。是等の事柄は何故かを考へしこと
もなかるべし。日々燈明を絶へさせざるは魂を迷はせざるよう、光明を彼
に与へ、行くべき所に到らしめんとの思ひ遣りにて回向なし居るならん。
斯かる事にて魂は迷はず到るべき処に到達するならば、肉体を有する間に
行ずる必要もなからんとは思はざるや。四九日とは我等に言はしむれば、
数を指すにあらずして始め終りなく苦む日と云ふ。即ち始終苦日(しじゅうくにち)の
譬喩を数に引用したるものならんと思ふなり。然りとせば始終苦日
(しじゅうくにち)は永久の苦しみを免がれじとの思ひ遣りにて、日々の回向
をなして彼を迷はせざるよう行ずるにあらざれば、彼は昇天することあたは
ざるならん。終始苦日は永久の意味とすれば、彼の魂は他よりの回向なら
では、成仏することは難しとの意味より考ふれば、永久その家より離れずし
て、其処に止まり居る結果となるにてはあらざるか。数の四九日ならば其家
に執着することも短日に終る。されど始終苦日(しじゅうくにち)の迷ひならば、
彼の魂は永久その家に執着なし居りて、行くべき処を知らざる結果とならん。
斯かる宗教者の教へを、世人は真実と心得て信ずることを得るや。信仰なき
者の魂の成仏解脱は難し。故に肉体ある間に信仰せよとの教へをなすは宗教
者の任務なるべし。余事は別として斯かる事を世人は率直に受け入れて、
是を信ずることを得るならば、我の従来説き来りたる事柄は、異議なく信じら
るる筈なりと思ふなり。然からば信仰なき者の魂の緒の全く切れたる結果は
如何にと云ふに、彼は臨終に至って漸く余儀なく死を知りたるのみにて、
生の方面には考ふる力なければ、不安にて魂のみ肉体を離れたるにすぎず。
暫時は夢心地の姿にて暗中にただよひ居れど、其夢心地が消滅して魂のみ
が生を有するが故に、唯訳もなく右往左往して行くがままに漂ひつっ、あて
もなく迷ふの他なすべき術をも知らずして浮遊し居るなり。されど魂の緒全く
切れたるが故に、親兄弟知己の人などの事も亦、従来行ひ来りし己が経路を
も知らず。故に我家に帰るとか、又従来住み来りたる地球上の様とか、凡ての
感じもその悉くが失はれて、唯訳もなく浮遊し居るにすぎざるなり。斯かる姿
なるによって地上より如何に回向なすとも、彼には通ずることなし。名僧が如何
に法力を以てすとも、彼には無関心なること云ふ迄もなし。されば幽霊となりて
地上に現はるることすら知らざるなり。さればこそ死したる者の現はれて、天国
地獄の有無を語り聞かす等の便りはなすことを得ざるも此理によって察するを得
るならん。冥土より未だ音信なしと云ふも是なり。故に世人は死後を火の消へた
る如くにて、終ると考へ居るも事実は然らず。されば肉体を有する間に天界をき
はめたるものならでは、汝等に死後を語りくるるものはあらざることを、先づ考
慮に入れて我等の説を聞くべし。
我等は生より生を得て、世人に語る力を与へられ居るが故に、世人をして天界
に導くことを許されたるも、皆是修養修行の勤めを果たしたる結果よりの現は
れなるが故なり。所謂我等は冥土より、汝等に便りをなし居ると知りて可ならん。
汝等は近代の科学を正しと思ひて、科学的に考へを廻らすによって、我等の説
と反対の結果を招き居るなり。汝等の考へにては肉体は構成せられて、その
構成せられたる肉体のはたらきあるが故に、そのはたらきの力が所謂魂を生
み居るとの思ひなるべし。故に肉体分離せらるれば、そのはたらきは全く静止
す。肉体のはたらき静止すれば、魂も分離せられてはたらかざるが故に、是
も供に分離せられて、全く魂としてのはたらきは消滅すと考ふるが故に、信仰
の力は具はらざるなり。さればこそ肉体を有する間のみ、人間同士が争はず
して平和にその日その日を送り居らぱ、其れにて人間界は栄ゆると云ふ宗教
は成立なし居るならん。唯地上に生を享け、其れのみにて世は進歩発達するも
のならば、天界などの理論を考ふる必要もなし。」





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