覚者慈音393

未知日記 第十巻  帰途案内記
最終の巻



                      その48
二流界、仮称霊空界の人類について                          
                  セイキヨウ貴尊 講述


 世人の言葉に外面女菩薩内心女夜叉と云ふあらん。是は女子のみに限らず、男子にも見らるる現象にして、表面に善を装ひ内心に悪を企む。是即ち一人の人間が或は善人となり、或は悪人となる二心を有し居るは、一般の姿なるべし。故に世人は鬼ともなり、仏ともなる心を有し居るにて、所謂悪魔と仏と一体化なして世を治め居るがゆえに、或時は乱れ或時は治る。されどその悪魔を世人は退散せしめず心に宿し居るにてはあらざるか。もし汝にして霊あらば悪魔を退くる筈なるに不拘、何故是を退けざるや。汝の霊は汝に取りての神なるべし。然るにその霊は鬼心を退けずして貯へ居るは何故かを考慮して、修養修行の資料とせば、全宇宙のすべてを知らずとも、修養修行の望は成就するとは考へざるや。日々の世渡りをなすにあたって、如何なる善人と雖も折々は悪心を起すことあらん。然りとせば真の善人と云ふものはたえてあらざる道理より考へを廻らさば、我に悪心あるが故にこそ善事は行はるるなり。故に悪心は我を誡め呉るる教主なりと考へなば、敢て悪心を棄つるの要もなからん。悪心を捨てよと教へられ、又己自ら悪心を捨てんと計るとも、到底望は達せらるるものにあらず。悪をすて切らば果して真の善人になるかと云ふに然らず。悪心あるが故に是を己の教主として、或は手本として是を行はずして進むにあらざれば、真の善人とはならざるなり。悪心の起る時は我に油断あるが故なりとの念を強くして、悪しきと思ふことを行はず、善の方向に向けて歩みを運はば、其にて修養修行の望は達せらるるなり。悪心は後方に退かしむる引力にして、正しき心は前方に進むる圧力なりと知らば可ならん。又悪心は薬の量をあやまちたりと知らば、是を良薬となる程度に変ゆれば、其にて悩みは治癒せらるることと考へなば、善悪物の数ならず。悪心あらばあれ。善心あらばあれ。善心悪心共に物の数ならざるべし。要は魂によって心掛けの如何によるなり。先に語りしおきく婆さんの例に徴しても明らかならん。世人は悪心をすてんと考ふるが故に、悪心を捨つることあたはざるなり。神より授けられたるものならば棄つるにも及ばず。又捨てられるものにもあらざるが故なり。
 大凡人間として生れたる以上善悪のそなはらざるものあらんや。唯その心掛けの用法の相違によって異なるのみ。所謂「傀儡師(くぐつし)首にかけたる人形箱、仏出そうと鬼を出そうと」と云ふ短歌の如く鬼も出れば仏も出るなり。棄てんとして棄てられるものにあらず。是自然のそなはりなるが故なり。もし悪しきと思はば行ふべからずと云ふの意味なり。もし悪しき行ひも我に於てよしと思ふことならば、そは行ひても差支なからん。是すつるにあらずして行ふと行はざるとの相違あるのみ。又々宗教くさきことを語りて申し訳なし。話をもとに復すべし。


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