覚者慈音392



未知日記 第十巻  帰途案内記
最終の巻


                      その47
二流界、仮称霊空界の人類について                          
                  セイキヨウ貴尊 講述


 衣を必要とせざる神霊界に至らずば、全く人を離れたりとは云ひがたし。たとひ神霊界に至るとも姿を他に示す底の如きは、真の神にはあらざるなり。神は姿を他に示すものにあらざるが故なり。霊神界の位置に進めば最早其以上進むことは難し。所謂人間界に置かれたるものは如何に修養修行すとも、神となることは得難し。されば是等のことを我等は知るが故に、教主と雖も神にあらずと語り居るなり。この理より世人は智慧をはたらかせて考へ見よ。然らずば霊魂不滅の理をきはむる事難からん。されど此理をきはむれば不滅の意味は察せられる道理あるなり。
 人の衣を脱ぎて神霊界の如くなるとも形を有する以上、神にあらずとの理を知るならば、霊魂は決して滅するものにあらずとの理は察せられる筈なり。是を補佐するものは即ち神なるが故なり。姿を有する神霊界に至らば初めてその極致をきはめ尽したるが故に、大自然の大自由は得られて、ここに初めて不去不来不帰不住の安楽は得らるると承知せよ。是等の説は最後の話なるが故に、是等に至る迄の順序を明らかにせずば、世人には理解すること難からん。されば話を前に逆上って順次説明することとせん。
 我、先に語りし如く悪魔は二流界も犯さんとして狙ふと話したり。悪魔の通力と正しき者の通力とは、その力の程度に於て異なることなし。すべては神の法則に従はずば通力は得られざる故なり。唯その力の用法に於て異なるのみ。所謂上方に用ゆると下方に用ゆるとの相違にして、法力と云ふに変りなし。所謂悪魔と云ふは神の法を逆に使用し、上方に用いざるが故に、唯上下の区別あるのみなり。上らせんする行ひと陥れんとする行ひの違ひにて、是を上方には善と云ひ、下方に用ゆるは悪と称ふるのみにて、即ち用法によっては薬ともなり又毒薬となるの相違あるのみ。法と云ふに変化なきなり。所謂用いんとする者の心掛けが或は正しきに、或は不正に行ふの区別にすぎず。法は一にして二なきことを知らば可ならん。故に悪魔と雖も悪魔の法と云ふ特別なるもののあるにあらずして、所謂神の法を用い居るが故に、法力は行はれてあるなり。兎に角悪魔は引力にして、すべてを引き戻して破壊せんとはかりて、すべてを神の方向に向はしめざるやぅ、一種の陰謀をなすにすぎず。かかる事は世を組織する方法として必要なるが故に、神は悪魔を亡ぼさずとも別段差支なきが故に、是を許しをきたるなり。所謂世人の世界に良薬を授けて病苦を救はんとなすに不拘、その分量をあやまちて却って生命を失はする過誤をなすも、これ法の行ひかたの正不正によるにてはあらざるか。量をすごせば生命を傷け、適宜に用ゆれば病苦は治癒す。是悪魔と善魔のあるが故なり。されど薬と云ふに変化なからん。法とは斯くの如きものにて、あやまてば不可となり、あやまたずば正となる。世人の心掛けも同様ならん。憎む心は悪魔にして、憐れむ心は善なるべし。是引力と圧力の相違と見るも可ならん。
 兎角世人の善悪には身勝手なること多くして、神の善悪とはここにも亦大なる相違あり。戦争に於ても人を害すとも罪とはならず。勝ちし方は却って賞せられるにてはあらざるか。此理より考ふれば毒を以て薬となし、或は薬を以て毒となすが如きことを敢てするが故に、善も悪となり、悪も善となる。故に世人の世界の善悪は我身勝手なることきはめて多し。悪魔と雖も用いかたによっては悪魔にあらざるべし。悪魔も法なり。故に神は是を区別して用い居るにすぎず。よって二流界迄は悪魔も退け給はざるなり。されど一流界に至ってはかかるもの必要あらざるが故に、入ることを許し給はざるなり。是を学理にて語るならば二流界以下は相対なるが故にかかる区別あれど、其以上は絶対界なるが故に区別の陽らずと知らば可ならん。是を宗教者が善悪に区分して人を導く方便に用い居るにすぎず。故に宗教と学問は一体ならざれば真実にあらず。異なる説き方の相違あるのみと知るべし。
 


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