覚者慈音391

未知日記 第十巻  帰途案内記
最終の巻



                      その46
二流界、仮称霊空界の人類について                          
                  セイキヨウ貴尊 講述





 (汝等は)生涯を呼吸にて暮し居るにてはあらざるか。呼吸止まらば其にて終りとなる。故に世人の世界は呼吸の世界なり。至極簡単なるものにてはあらざるか。もし世人の世界に空気なくんば其呼吸は得られざるべし。斯く考ふれば世人は空気によって身を支へ居るにてはあらざるか。物事は拡ぐればはてしなく思はるることも、縮小して考ふる時は至って範囲のせまきものなり。然るに其生かされ居る空気に対して、誰も感謝を捧げ居る人はあらざるべし。空気を吸ひ、空気を吐き出して、其にて終る。真に人の生涯は簡単なるものにてはあらざるかと云ふ程度より、更に其を奥深く追究して考察する時、そこに何物かの大なるさとりを得らるるにてはあらざるかとの念を強くし見よ。然らずば到底二流界の様を想像することは困難なり。斯く語らば世人は云ふならん。我等等は空気のみにて生存するものにあらず。即ち食することによって、生命は保たるるなりと思ひ居るならん。されど喰ひても喰はずとも死するものは死す。喰ふ、喰はざるは呼吸せしむる動力に他ならずとは考へざるや。生は食によって保たるるものにあらず。食は肉体と云ふ機械をはたらかす動力に他ならざるべし。されど肉体の機械破損すれば呼吸は静止す。其にて終りとなるにてはあらざるか。所謂阿吽の二字に帰するにてはあらざるか。
 此言葉は余りに極端なるが故に、世人には様々理論を戦はすならん。もとより我は承知の上なり。斯る極端なる言葉を用ゆるも我の意志は他にあるなり。相対性の世界ならばすべてを縮小して考ふる時、唯彼我の二文字に帰する故なり。鏡に写る我姿はもとより一なり。さそれど是を分解すれば彼と是との関係の如く見ゆるは、是相対なるが故なり。この理をよくよく認識せざれば正しきさとりは得難し。明鏡にのぞんで相見る時汝は是彼にあらず。彼将に是汝と云ふ言葉の如し。すべては一体なり。人と云ふに変りなからん。汝も人なり。彼も人なり。我も人なり。人と云ふに変りなければ彼我の区別あらんや。彼我一体なるべし。斯く考へる時世人の世界の人類と雖も、二流界の人類と雖もすべては一なり。不可分の関係にはあらざるべし。然りとせば世人の考ふる如く、自他の区別を何によって定むるや。即ち距離と云ふ言葉が是を考へしめ居るにてはあらざるか。二流界と汝等の界とは遠くへだたると思ふが故に、世人は自より他を見ることあたはず。距離なくして汝の前に二流界の人来るならば、其時初めて斯くありしかと覚るならん。されば棄つるものは距離なるべし。汝と二流界とはへだたりあるにあらず。極めて近しとの念を起して、深く考慮せばここに覚りは開らかるる筈なり。斯く語るとも世人は未だ距離の念を棄ることあたはずして我説を聞くが故に、此説を空論なりと考ふるならん。其は大なる誤謬なり。我等は空論を語りて益なきことを汝等に教ふるにはあらず。虚説を事実の如く語りて、世人を導かんなどなす如き愚を敢てして、何の益あらん。二流界の人類は汝等の世界に手をさしのべて是を監督なしつつあるも、是即ち距離を捨てて自由を体得なし居るに依ってなり。即ち二流界は霊空界と仮称したるも、此理を世人に知らしめんが為なり。霊空なるが故に、距離は有せざるなり。魂魄界の人類は霊を主とせざるが故に、上界には未だ到達せざれど、二流界の如く霊空界の位置に進みたるがゆえに、上界はもとより下界のすべてに至る迄、距離を離れて自由の行動をなすことを許され居るなり。既に二流界の位置に進まば最早人間界を度脱したる、所謂仏教に云ふ仏となりたる姿と見るも可ならん。されば魂界以上の人は皆菩薩の境涯なるべし。是は仏教の言葉を借りたるにすぎず。されど我等に云はしむればたとひその階段が、文字に依って定められると雖も、即ち衣を纏ふ以上人として、神は取り扱ひ居らるることと承知せよ。


 


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