覚者慈音386

未知日記 第十巻  帰途案内記



                      その41


 三流界の人類の生活について                          
                  セイキヨウ貴尊 講述


 獣類は一体四足の具備ありて歩みは早し。人間は一体二足の具備よりなきが故に、歩みは彼には及ばざるなり。肉体の組織より考ふる時は、人間には獣類より劣り居るにてはあらざるか。斯く語らば世人は云ふならん。人体には二足なれど二手の具備を有するが故に、彼等より優れたりと云ふならん。されど彼等には世人の手より巧妙なる口と云ふ、具備を有し居るにてはあらざるか。世人の手は彼等の口に等し。もし世人が彼等と戦ふ場合手と口との争ひをなすにてはあらざるか。世人には智慧と云ふもののなかりせば、彼等に食まるる他なかるべし。獣類を手なつずくるも智慧なるべし。さりながらその智慧の具備に於て唯その智慧にのみまかせては彼等を征服することは難し。是に何か特殊のものなかるべからず。かの泰岳の如く智慧なき者に於てすら動物は彼に親しみて交はり来る。此事柄より考ふる時人には智慧の他に、何かすぐれたる一種のはたらきが何処かに宿り居ることに心づかざるべからず。即ち是を人徳と世人は称し居るならん。彼の人は人徳あるが故に多くの世人慕ひ来ると云ふ言葉より、人徳とは何処より何によって定められしかをよくよく考慮し見るべし。徳高き人、徳低き人、是は智慧のみによって得らるるものにあらず。人徳と云ふ事は唯運命と思はばそは大なる誤解なり。如何に智慧すぐるるとも智慧のみにては人徳は得らるるものにあらず。人爵は智慧によって得らるれど、天爵は智慧によってのみ得らるるものにあらず。即ち天爵とは人徳を云ふなり。我かかる事を語るは他にあらず。人徳をつむと云ふことに対していささか語らずば修養の真を究むること難き故に、いささか是より人徳に対する説明をなして世人の修養の参考となさん。
 我常に語り居る事なるが人間界(世人の世界地球)に於て定められたる、善悪邪正の区別はすべて正しきとは言ひし難し。其は人間同士の定めの約束なるによって、善と思ふ事も後に至って悪とならば、是はその約束を破りて変更するの他なからん。故に世人の世界の善悪邪正は是みな約束によって、都合上定められたる掟にすぎず。然りとせば約束を守るものを可となし、守らざるものを否と云ふに帰す。たとひ如何なる事にもせよ、守るものは正しく、守らざるものは正しからずとの結論となる。例へば悪人の仲間にもそれぞれ掟あり。その掟を守るものを可とし守らざるものを否とす。悪人に於てすら尚かくの如き関係あり。善人に於ても亦然り。斯く考ふれば善悪邪正と云ふは、約束を守ると守らざるとの相違あるのみにて、帰するところは約束と云ふ一つの定めなるべし。斯く考へ来る時人間が地上に置れたる時、それが如何なる理由ありて人間に生れたるか、又何故に人間として置かれたるかを考へざるべからず。もしここに神ありとしてその神なるものが人間を作りたりと考ふるならば、人間と神との間のつながりに於て何かそこに一つの約束あるやもはかられず。もし世人の考ふる如く人間が自然より生れたりとするならば、その自然と人間との間に一種のつながりあることに思ひ至る時、自然と人間とのつながりは一種の約束なるべし。かく考へ来る時自然と人とのつながりなる約束を守るものは可にして、守らざるものは否となる関係より推理して考究せざるべからず。ここに於て其自然なるものを彼とし、人間を我として考究するならば、仮に彼を神とし我を人として相対の関係を作りて考へを廻らす時、即ち神と我との結合なるはこれ当然なるべし。然りとせば自然より現はれたる人類なるが故に、自然は先にして我は後なり。所謂神は親にして我は子なる関係とならん。よって約束を守ると云ふは神の法則に従ふと云ふ言葉に尽きるとの考へを廻らさざるべからず。自然に順応すると云ふことは約束を守ると云ふことにて、順ぜざるは守らざる結果とならん。此理より推測すれば善とは自然に従ふを云ひ、悪とは自然より遠ざかるを云ふなり。



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