覚者慈音380 帰途案内記  さらに三流界の人類の生活について  セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻  帰途案内記



                      その36
 四流界の人類の生活について
 更に、三流界の人類の生活について                          
                  セイキヨウ貴尊 講述


  無始終霊子の作用が如何に完全無欠のものを作り出すかに思ひをはせよ。無始終霊子にかへれば全宇宙は広からず。手近き所にそのそなはりが及び居て、世人の肉体にも宿り居ると知るならば、これ又是に同化する力を養はば居ながらにして、其居に達すること疑ひなしと我等は語りきかすものなり。遠きを求むること勿れ。さとりは近きにあるなり。否汝の有する肉体にそのそなはりが授けられ居ることに早く覚醒よ。然して及ぶ限りの誇大妄想狂をはたらかせて、其がなし得られざるかを判断せば可ならん。今慈音が我に対して大相場師と罵(ののし)りたり。我は大投機師にあらず。世人の智慧にては想像もなし得ざることは、我等百も承知の上なり。されど魂界.魄界(五.四流界)の人類ともならば我の語ることは当然なることにて、誇大妄想狂にあらざることをさとり居る故なり。又事実に移して是を日々行ひ居ることを我等は知るによってなり。既に魂魄界(三流界)ともなれば魂界.魄界(五流界.四流界)とは異なり、なしてならずと云ふことなく、ならざる事あらば却って其を、不審する底の智慧そなはり居るなり。彼等はならざる事あらば其誤まてる所を究め尽して、然して後すべてを完成なし居るが故に、人智は及ばざるところなくはたらかせ居るなり。彼等は無始終霊子をたくみに応用して、其によってすべてを実行にうつし居るによって、如何なることをも意の如くなし得て、はては二流界にも進まんと計り居るなり。かかるところ迄理を究むるにあらざれば、神を知ることは難し。世人の神を信ずると云ふは、神を信ずるにあらずして、虚を信じ信ぜんと計り居るにすぎず。所謂虚を真実化(まこと)せんとして、種々様々の企をなす陰謀者の類に他ならず。その陰謀を世人は曲解して神を信ぜんとなすが故に、稍もすれば神を誤解して己を傷くること多し。嘘を真の如く考へて其を神として崇拝なすとも、何の顕著なる恵を受くることあらんや。即ち己の智慧及ばざれば、何かによってその解決を計らんとしてたづね求むるものを神と心得て、拝むとも何等得るところなきは当然なり。是を求めんとならば理より理を追究して其によって尺度をのばすにあらざれば、正しき教へを受くることは難し。実より実へと追究して求むるを正しき信仰と云ふなり。世人の信仰は虚より虚を求むる信仰にして其は空しき結果に終るは当然なるべし。神の道は正しきあらざれば、通ぜずと仰せられしは是なり。正しからざる信仰は所謂虚より虚を求むるに他ならずと知るべし。是をキュの法と云ふなり。
         空想をはかるとも  
            虚想はたくましくする勿れ   



 ここに至って最も大切なることは信仰の力なり。世人の信仰を見るに理に合はざる事を理の如く思ひ誤りて、空しき修養をなし居ること多し。是を虚想と云ふなり。理より理へと追究して進を空想と云ふなり。されば空想を広くすることは智慧をみがく方法なるが故空しきにあらず。虚想は雑念妄想をはかるのみにて其はいたづらごととなる故に、虚想をたくましくする人は、結果に於て幻影錯覚を併発して、果は肉体に障碍を醸すのみにて、却って身を亡ぼすに至る。故に虚想は慎まざるべからず。されば虚想と空想を混同する勿れ。
 例へば神を信じなばたとひ食せずとも餓ゆることなしと云ふが如き信仰は是虚想に他ならず。神を信ずるが故にこそその恵を受けて、与へられたる食によって餓ゆることなきなり。神を信ぜず、神の力を知らざるが故に、道理を知らず。其がために虚想を考へて何事も神にまかせなば、我は何をなさずともよしとの考へは、稍もすれば誤つこと多し。神を知りての後すべてを神にまかするならば其は正しき信仰となる。神を知らずして斯る考へをおこすが故に、錯覚に陥りて身を害すること多し。神は人を餓えざらしめんとして食を与へ給ふなり。其与へられたる食を喰はずして、唯神にまかすとも餓ゆるは当然なるべし。是を理に合はざる信仰と云ふなり。神は医師をつくり薬を作りて病苦を救はんとなし給ふを厭ひて、唯神に願い居らば病苦を治癒すと考ふる如きは、虚想にして是空想にはあらざるなり。虚想は理を非に曲げて考ふるが故過誤を起し易し。空想は其と反対にして理よ理を追ふて考へを廻らし、何事も神の恵なりとして歩むが故に迷ふこともあらざるなり。されば虚想をすてて過ちたる道を歩まざる用心肝要なり。世人は稍もすればかかる間違ひを生ずること多し。理なき事を理として其は神業とか或は神のお指図なりなど称して愚にもつかぬ教へをなし居る宗教者は多し。かかるものには耳を籍す必要もなからん。

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