覚者慈音377   四流界、三流界の人類の生活について

未知日記 第十巻  帰途案内記




                      その33
 四流界の人類の生活について

 更に、三流界の人類の生活について                          
                  セイキヨウ貴尊 講述




 智慧は美味なり。又養分となるによって美味をはみて養分を吸収せば、心魂は太り育つこと云ふ迄もなからん。かく語る時世人は云ふならん。其は理の如く思はるれど是を修する法なくんば理の証明は得難しと。
 我等は理屈を語るにあらず。法を語り居るなり。我等の語る事を唯論説の理として聞き流すが故に、水に流るる木の葉の如く思はるるなり。我等の語り居る事はすべてが法を語り居るなり。是即ち法の妙味を世人にほどこして食はしめんと計り居るなり。我等の説は即ち味を語り居るなり。此味を心に食はしむれば智慧は智慧の妙味に化せられて、尽きるところなく進化なし行く事は云ふ迄もなし。我等がかかる説を語る時、世人は聞きつつ是か非か偽かと迷ふならん。その迷ひこそ心の口にして、迷ふと云ふは味を咀嚼し居るが故なり。故に我等は智慧をあたへて、汝等に食はしめ居ると知らば可なり。即ち日々慈音欣情をして是を喰はしめて、然して彼等が食したる後の食を後輩者の人に迄、食はしめんとなし居ることと知らば可なり。食へども食ひ尽すこと難く如何に食ふとも尽きざる食とは是を云ふなり。
 既に魂界の人類ともならば完全なる力を有するが故に、心は自由自在に其力を受けて法の任務を果すによって、誤つことなくすべてを貫徹す。されど魂界の人類は表面に現はるる力優れたれど、内在し居る魄の力うすきが故に、その程度も従って欠くるところ少なからざるなり。其が魄界ともならば魂の力を内在化せしめ、潜在なし居たる魄の力が表面に現はれてすべてにあたる故に、魂界の人類の如き欠陥は少なくして、すべてを魄が表面に現はれてすべてにあたる故に、魂界の人類の如き欠陥は少なくして、すべてを魄の力にまかせ魂は是に従ひ居るが故に、その欠陥が魂界の人に比して少なきことは云ふ迄もなし。魂界と魄界との相違は、一言にして語るならば陽性と陰性の相違にて、魂界は陽性なるが故に、進むことのみ強けれど退くことにうとし。されど魄界は思慮分別にすぐれたるが故に、陰性のはたらきをなして魂の如く進む方向ににのみ心を奪はれざれば、誤ちは少なきとの相違なり。
 魂界.魄界が(五流界.四流界)発達して既に魂魄界(三流界)ともならば、其が全く完成して進まんとすれば魂を現はし、退かんとせば魄を現はし、魂魄自在に廻転して思ふがままに活躍するが故に、過失と云ふこと毫もあらざる世界を作り居るなり。魂界の人類は物事をなすにあたって、斯くすればかくなるとの考へにて直ちに実行に移す。されど魄界の人は斯くすれば斯くなる。されどその後は如何にと云ふ程度迄考へを廻らして事にあたる故に、結果に於て魂の人と魄の人との相違はあるなり。然るに魂魄界の人ともならば、その基礎的より結果に及ぶ全部の考へを充分にきはめ尽して、後に是を実行に移すが故に、決して過誤を生ずることなく直ちに物事の成就を見るなり。

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