覚者慈音374

未知日記 第十巻  帰途案内記


                      その30
 五流界の伝説   五味の木について
 <地球の科学者達へ>
                           
                  セイキヨウ貴尊 講述


 学者は学にのみ囚はれて為に他に心を移さざること多し。是即ち学問と云ふ味に囚はれ居るなり。恰も喫煙家は煙草に囚はれ、好酒家は酒に囚はれ、為に肉体に及ぼす障碍は排除することあたはざるに等し。是等も味に囚はれて、その味を忘るることを得ざるによってなるべし。身にしみたる味は、容易に禁止することを得ざるならん。学者の学問に囚はるるも、是と同様と思はば、味と云ふもののはたらきが如何に大なるかを知ることを得るならん。魂界は魂界の味によって成立したる世界なりと知らば、その智識の程度が発達して究め尽したる妙味は如何あらんと広く想像せば、其によって世人の知識が如何に味の程度によって化せられるかを、考案せよと勧るものなり。即ち表面に表はされざる内在の妙味をさとれよと教ゆるものなり。
 魂界の人類の智識すぐれたるが故に、六七八流界人類に迄その味が流れわきて、為に悪魔は侵入することを得ざるなり。是を平易に語るならば魂界の智慧の光明が、六七八流界を照らすによって、その光にさへぎられて悪魔は入ることを得ざるなり。よって悪魔の優れたるものは是を知りて、魂界以上の土地を狙ひて是を犯し、あわよくば此界を乗り取れば、六七八流界は己が自由となることを知るによって、隙間あらば侵入せんと企画み居るなり。この説によって世人は魂界以上の地を、悪魔が狙ふ道理を解したるならん。下流の魚族をすなどりせんと、はかるに等しと思はば察するを得るならん。我、今迄語りたる事柄は恰も禅僧の問答の如く感ぜられるならん。禅門にては本来空の妙味とか云へるむづかしき言葉あり。空の妙味とは何ぞ。我等が語る味なるべし。我、斯るまぎらはしき且つ皮肉なる言葉を、世人に語るも別事にあらず。宗教くさき事によって世人を苦めんと計るにもあらざるなり。斯ることをなして何の益かあらん。されど是等の事を語りをかずば後にテッシン貴尊及び教主の教へ給ふことの意味を、世人は喰ひ味ふこと難からんと思ふが故に、予備知識の養ひとして、かかるむづかしき事柄を語りしにすぎず。今は世人にはむづかしくて到底解することは得難きことは、我等百も承知の上なり。されど後に至ってかくありしかと悟る日は近からん。其迄は我慢して聞きをくべし。ここに注意しをくことは我、味とは、生または勢又は希望と云ふ言葉を語りをきたり。よって此言葉に対して深く考慮せられんことを望む。然してこの言葉忘れざるやう注意なしをくなり。六七八流界と魂界以上の世界との相違はかくの如くなるへだたりあるなり。即ち六七八流界は魂界以上の勢力を受けて生活を営み居るが故に、安らかに暮らし居るに反し、魂界以上の世界は一方には六七八流界を補佐し、一方には神霊界のつとめを果す中間性のはたらきを命ぜられ居るにて、其任務の重大なることは世人の夢想だもなし得ざる底の世界なりと知らば可なり。この理を知らんとならば前巻を参照して、心意魂魄霊の五味の説を読みて理解力を養成せば、この界のことを知らずとも、世人の個々にあたへられたる心意魂魄霊の力を持って、修養の度をたかむれば世人の利益は大なるべし。是によって己自ら福徳を得よと奨励るものなり。世人は唯生きて肉体失はるれば、其によって天国或は極楽に往生するとのみ考ふるごとき、宗教くさき説を信じ居りては、唯徒事に終りて何等の甲斐もなからん。肉体を有する間にこの事柄の理をきはめ尽して肉体などに囚はれず、是を国土一界に迄及ぼして後輩者のために、九流界以上の世界を現出なしをかざれば、己が任務は全しとは云はれざるなり。肉体何ぞ物の数ならん。任務を完全に果さんとなすものに於てこそ肉体は大切なり。故に棄つるが是か棄てざるが是かに考慮をめぐらすべし。空しく生きては肉体はものの数ならず。空しからざる底の肉体を大切になすに不如とは考へざるか。かく考へなば人身の尊さは察するにあまりあらん。
 誰かの道歌に「世の中は喰てねてをきてそのあとは、生命が尽きて死ねばがったり」とか云へるを聞きたり。かかる肉体ならば生れて何の意味もなからん。所謂味気なき世なるべし。味ある世界なるが故に人に生れし妙味はここに存すと深く考慮せよ。



×

非ログインユーザーとして返信する

あと 2000文字

※は必須項目です。