覚者慈音345  帰途案内記  重要記事  人が死んだらどうなるか、死後の魂の往く道   セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻  帰途案内記
                その3
  
                 セイキヨウ貴尊 講述

人が死んだらどうなるか  死後の魂の往く道


 魂の緒の全く切れたる後に於てこの三種の相違あるによって、
天界に運ばれ来る者、みな其々程度に応じて居を異にするは、是又当然なりと考へざるべからず。霊は魂の力の程度を知るによって、その程度に応じて運びをなし居ることも、前説によって察せらるるならん。浮住界に長く止まりて、種々様々な苦みをなし居るとも、霊は離れず。さりとてその苦みをのがれしめんとはなさざるなり。前書にも語り居る如く、霊は善にも従ひ悪にも従ふ。悪人が善に化すれば霊も善に化し、悪人なりとも善人なりとも、その程度に従ひて霊ははたらく。されど魂には苦痛を感ずれど、霊には苦痛はあらざるなり。
浮住界に於て永久迷ひ居らば、霊は共に是に順じて離れず。故に霊の力によって永久死滅せざるなり。死滅せざるが故に、永久の苦はまぬがれざることも推して知ることを得ん。故に一旦この魂が悔悟して浮住界に於てめざむれば、忽ち霊も是に応じて安楽の境涯に導くと知るべし。
浮住界に於て前非を後悔なして正道につかば、霊は是に応じて安楽の処に到らしむる力を有するが故に、この霊に有する特殊の力が働らきて、魂は悔悟することを得るも、是即ち霊の威徳によるなり。苦みを味はひて唯苦みに悶え居りては、何時かは覚むる事あらん。此事あるによって我等肉体を有する間に、修行しおかずば魂の緒切れての後の修行は、至難なりと教へしも是なり。
浮住界に迷へる魂は、苦みを苦みとして悶へ悩むのみにて、悔悟して己が非を覚る事を知らざる魂の余りに多きを見るによってなり。浮住界に於て斯かる苦しみを得たるも、何か前世の罪ならんと悟る事を得ずば、到底此苦患を脱すること至難なる故なり。修養修行なき魂は唯苦むのみにて、その原因をたしかむる力を具へ居らざるが故に、悩むのみにてさむる事をせず、永久の苦に悩さるるのみなるによって、我等は肉体の有する間に、修養修行して持続魂に化し居らば、たとひ浮住界に置るるとも、前世の原因をさとりて悔悟する力備はり、その力によって、斯くは教へ居ると承知せよ。



 たとひ神を知らずとも、自然に順応して人道全きを得たるものならば、神を知らずとも是等は浮住界より如意界に移され、更に又他の場所に於て修養し、然して魂の稔り完全になりたらば、又界を変へて其々到るべき処に移さるるは云ふ迄もなし。故に信なきものと雖も人道を正しく渡り居らば、其は自然に順応したるものにて、信の力は表面に現はれずとも、二葉を出して最後は稔りを得るに至ると思はば、要は人道を正しく渡るに不如との結論となる。然るに人は肉体に重点をおくによって、人道を正しく渡る人は少なし。大抵は横道冥道に迷ひて自然より遠ざかる故に、浮住界の苦はまぬがれざるなり。是等の事柄より宗教の必要に迫らるるなり。
然るに宗教の多くは人心を迷はすのみにて、正しく人道を導くことを得ずして、却ってその宗教がわざわいとなりて迷信妄信を誘発し、為に浮住界を賑はすことの多きは真に遺憾の極みなり。宗教を信じて信の力拡大するとも、誤たる道を踏まば、その信の力の為に却って苦をまねく事多し。故に宗教は選ばざるべからず。
我等の見る処には宗教者の教へ導き正からざるが故に、浮住界の
苦をまねき居るもの夥(おびただ)しくあるを見て、実に憫を感じ居るものなり。
信仰の力はきはめて大切なり。されどその信の力が迷信とならば、身を亡ぼし魂を傷くる結果となる。真に恐ろしき事なり。其は兎に角第三の場合と雖も、神を罵り己が智慧に誇る如き人は、正道を歩む人にあらざるが故に、勿論是等は浮住界に苦みて、使子の手をのがれて尚も苦みを重ね居るもの、是又少なからずあるなり。世人は肉体を有する間の苦みを、長き苦みと思ふは誤りなり。又肉体の苦みに慣るれば、他より見る程の苦みとはならざる事も多からん。されど浮住界の場合の苦みは、習慣性の苦みはあらざるなり。肉体の苦みは或る場合麻痺状態となれど、浮住界の場合の苦みは度を重ぬる程猛烈となり、何時かは失はるるものにあらずと知るべし。故にかかる場所にて苦まんよりは、

肉体の苦みの短き間に、滅後の苦みをうけざるよう修養して正道を歩むに不如と、我等は世人に注意なしをくものなり。されど世人は我等の説を否定するならば其れにても可なり。
 我等は信不信に不拘、ありのままを伝へて世人の参考に供しをくのみ。
厭ふものを無理に導かんとはなさざるなり。是は空なるが故に、実を伴はしむることを得ざるが故に、余儀なく斯くは語り居るなり。我等の語り居る説を聞きて、世人は誇大に吹聴し居ると考ふるならん。されど事実は然らず。
我等の語り居るは大海の一滴の水にも及ばざることを語り居るにて、事実を如何に世人に知らしめんとはかるとも、筆舌の及ばざる程、宇宙は広大無辺なり。
まして全宇宙を語り尽くすことを得んや。
前巻にも語りたる如く浮住界には、種々様々の動物魂等々集り来りて、争闘の絶間なきことを語りたれば、世人は既に承知なし居るならん。
魂の緒全く切れて如意界に移され、ここにて新しき修養をなし、軅て選魂所に移されてその所にてその魂は、其々程度に応じて転界を許さるることと知るべし。前巻に語りたる多くの魂屑の蝙蝠界に移さるる様を語りたり。是等は選魂所に移されたるにあらず。如意界と浮住界の間に於て、使子達のあつめ来りたる魂をミキョウ達が選魂所の仰せを受けて一括して是を魂屑として投下なし居るにて、謂はば如意界と浮住界の間を掃き浄めて、埃を捨てたると同様なりと知らば可ならん。所謂魂屑とは埃の如きものにて、是を浮住界に置くことすらなさざるなり。
 然からば浮住界に集まり居るすべての魂は、如何なる結果をもたらすやと云ふ質問をなすならん。この所には多くの使子達集まりて救はれるものは救ひ、救はれずしてさまようものは救はるる時節到来する迄、此処にすてをきて争闘をなさしめ居るにすぎず。使子達は救はんとして近寄れば、彼等は恐れて逃げ惑ふ他術を知らざるなり。
浮住界と如意界の間に集り居る魂は、大抵善良なるもの多くして、悪魔に虐げられるもの少なし。されど是等の中にも空中楼閣を作りて、その所を天国とも或ひは極楽浄土とも思ひあやまりて、住み居るものも尠なからず。如意界に移されてその処にて空中楼閣を聯想すれば、直ちに如意界をはなれて浮住界と如意界との間に運ばれて、此処にて望みの空中楼閣を作り居るものきはめて多し。斯くも転界する迄には種々様々の経路を辿らずば、目的を達することを得ざるなれば、唯恐怖心を起さず我等の説をそのままに信じて、日々の業を怠らずば軅ては望みを達することを得ん。徒に一生を無意義に過ごしなば、結果は無意義に終る。

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