覚者慈音343

未知日記 第十巻 帰途案内記
                その1
  
                 セイキヨウ貴尊 講述

 



 慈音が今日迄肉をそぎ骨を削る行をなしたるに不拘、今日迄完全に此拝みを受け居らざるに不拘、世人は何等の行もなさずして教へを受くるとは、何という幸福なるかに心を置かば涙こぼるる程、有難しとは感ぜざるや。訳もなく語り聞かさるるが故に、訳もなく受け入れて何らの思い遣りもなきならば、所謂猫に小判の譬喩にすぎざらん。慈音が苦しみしは世人の罪を己が身に引き受けて、然して世人を安からしめんと計りたる結果なれば、世人は是等に対しても感謝の心を起さざるべからず。感謝の心なき人に語るも詮なし。されど集まり来る多くの人の中には、その感謝の思ひ遣りが強きもあらん。その思ひ遣りの強き人程受けたる教へは完全に果されて、幸福はたちどころに得らるるなり。世人よ、慈音の行を空しくなす勿れ。空しくなさば慈音は憫なり。彼は己の利益を考へず、己を犠牲にして己に持てる分野の力を現はして、世に捧げんとなしたる小さき心を、汝等汲み取りて思い遣りの念を起さば、汝等にもその思ひ遣りの心が厳戒の辞に現はれて、慈音をも救ひそれと同時に汝等も亦救はるる一石二鳥の結果とならん。
 正しき拝みをなしてこそ正しき処に転界することを得るなり。信不信は汝等の心にあるなり。世の中には多くの迷信邪念等々あれど、其を正しいと信じて己に利するを得たる人は、其は迷信邪心と思はるる事も彼にとりては正信となりたるなり。さればこそ汝等の世界には邪宗教がはびこりて、世を混乱なさしめ居れど、信じたるものには、何か益ありての結果より現はれたるなれば、彼等にとりては邪宗教にあらずして、正宗教と思ひ居るが故に、何時迄も悪しき宗教は影を没せざるなり。さりながら邪宗教は決して永続するものにあらず。正教より出でたる一種のあしき枝葉の教へなれば、其は枯れて地に落るは是又理なるべし。枝葉は枯るるとも、根強くして正しければ枯るるものにあらざる道理を、よくよく認識して宗教は正しきを択ぶべし。さりながら宗教に依て正しき転界は、得られると思ひあやまらば、其は誤解なり。宗教はその処に存在する間のみにして、転界には何等の関係はあらざるなり。故に宗教は一代果なりと云ふも敢て過言にはあらざるなり。
 斯く語らば世人は奇異の感を抱くならん。宗教は自然より現はれたるものにて、所謂自然より自然へと伝はり来りたるものなれば、転界とは不可分の関係あらざるかと思ふならん。もとより然り。されど宗教は枝葉の葉に属するものにて、風に散らさるれば忽ち飛散す。故に転界することは難しと思はば可なり。葉より枝、枝より幹へと順を追ふて、根に返へらば、転界することは至難にはあらざるなり。故に其を根に返へらす法として、正しき順路を求めて信の力を厚くするにあらざれば、転界する事は得られざるなり。故に転界せんとなすものは、正しき宗教を択び、その枝葉に相当する処より幹に返る順路を辿るにあらざれば、目的は達し難しと知らば、宗教の択びかたの大切なる事は推して知らるるならん。我等は宗教者にあらねば唯順路を知らしむる事に努力し居るなり。たとひ宗教心なきもの或は又種々様々の智者学者等々、己のもてる智識より工夫なして、更に新しき道を開拓するとも亦、何事をも念頭におかず生きるまま生きて死するとも、転界はなさるるものにて、好むと好まざるとに不拘、行くべき所に到達することも是自然の法則なり。されどなすがまま、なるがままにまかせて何事もなさず、一生を無駄に過しなば、その結果の転界は危ふくして、下界に転落するもあり、魂屑となりて棄てらるるもあるによって斯る憂ひなからしめんが為に、完全なる稔りを得せしめて安らかなる処に運ばんと計り居るなり。
 



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