覚者慈音342


 円海大師( 現在のミキョウ貴尊 )が山に入られ修業された経緯をお話します。皆さんは信じないかもしれませんが日本の仙人です。元禄年間に土佐の国に武士の子として生を享けれられた方で、昭和の20年代の初めまで、大峰山中で行をされておられました。現在はミキョウ貴尊として天界で働かれておられます。この天使の方の正式な呼称はヂショウ.サンキョウ.インショウ.ミキョウ貴尊といわれます。一度ゆっくりと読んでみてください。真の陰徳とはどういうものかがお分かりになられると思います。下記に記す文章は決して誰かの創作によるものではありません。事実、一八〇余年、深山で修業された仙人の肉声です。そしてネットで流れるのは史上初めてのことです。

衛藤慈声著  「覚者慈音」より


私は三十年間各地を放浪して一定の職も無く,唯無駄な日々を送っていたに過ぎなかった。それから以後百五十年間全く夢の如くに過ぎてしまった。
考えてみると私は何のために世の中に出てきたのだろうかという,何だか取り留めのない年月を重ね,世上の交わりとは全くかけ離れた生活を続けていたに過ぎなかった。短いようでも百五十年といえばかなり長い年月であったに違いない。だが,私には其れが長いとも短いとも感じなかった。世上の人は美味美食を求め贅沢三昧に日々を送っている。私と雖も若い頃は女性を恋したこともあつた。
深山にわけいって,師の坊より肉体の苦患を味はされ,辛き思いをなして其れが何になることぞというような棄鉢的な考えを持って,あまりに我が惨めさを想う時,下山して還俗しょうかとも感ずることは屡々であった。生きて居る以上,鞭打たれれば痛みを感じ,食せずば空腹を感ずるは当然のことにて,寒気身に迫り白衣一巻にては凍死するやも計らず,斯るときは実に悲しくもあり,又莫迦莫迦しくも覚える事は我も人である,我も人間である。肉体の具備ある以上これは是非無きこと。泰岳の如くすべての行に対して喜び勇んで任務に服するようなことは私には到底難しく感じられた。

季節は丁度春四月,釈迦降誕の法要が営まれていた。田舎寺の群衆の中を貴尊は歩いて居られた。その時,托鉢の一人の旅僧が私にに近づき,しげしげと顔を見つめて声を掛けられたのである
「お武家!貴下は仇を探して居られる。」
貴尊ご自身の記録によれば日本徳川氏元禄年間の末期土佐の武家の息子として出生されたのであつたが,不幸にして年少にして父君を他人の刃で討たれたのである。当時の武士の風習に従って仇討ちの旅に出なければならなかった。
遂には路銀も使い果たし,野に伏し,山に臥す困苦に耐えて諸国を経めぐる間に徒に壱拾 
「いや,違います。」と貴尊は答えられた。
「隠すには及ばない。貴下の人相に表れて居るから申すのじや。然し仇を討ち取ったとて其れで死者の妄執が晴れるというものではない。武士の則と言ってみても所詮は人間の妄執じや」と
その旅僧は肉体は切れても精神は切れぬ。互いに殺し殺されてなんになる。結局は妄執を重ぬるにすぎぬではないかと
物静かに大自然の道理を説かれたのであった。10年の歳月を得て父の仇を討って其れだけでよいものか。其れで万事一切が真に片づくものか。如何かと内心密かに疑念をもち,思い悩み迷って居られた際とて貴尊には旅僧の一言一句が心に滲み,身に沁みた。
結局意を決して仏門に入られた貴尊は空しい幾年を過ごされた末に山岳教に転じられたが其処にも心は満たされなかった。斯くして,最後に選ばれたのが行者道であった。

母の要請を入れて指導の手を伸ばされたミキョウ貴尊によって初めて大自然の大道に引き出されたとて最初,未修練,未熟の間の彼は矢張り孤独の感に冒されて居たらしいのである。彼の修端座して,頭腹一体の法を求むるは是安楽の法にして苦患の法に在らず。
楽しみを得んが為の苦しみは是苦しみに在らず。汝等よくよくこころせよ。」と屡々仰せられ其の都度痛棒を味はされたり。
法を伝えられて行なはずば何等の価値もなし。法力を錬磨する者は全く命がけの態度なれど,門外の人より見るときは滑稽に感じられるであろう。斯ることをなして法力を会得したりとて百人,千人悉くなし得られるものにあらねば,実に異様の感にうたるることは察せらるるならん。斯る事をなす隙にて人間としての働きを他にもとめて其れにいそしみおるならば世の中にもてはやさるる人物となる事もあらんに,山間僻地にありて斯る行をなすとは,はてさてものずきなるものかなと嘲る人もあらん。我等も時々は斯る行を廃して他に道を求めんかと思いしことも幾度かありしなり。
然るに行徳備わり,法力加わるに至りて此処に迷夢より醒め,真実の人間の道は明白に眼に写るようになりて今更人間の道の余りに広大なるに驚きたり。
其は法力,行力の熟達したるによってにあらず。心の迷いが悉く清浄せられて,魂の威徳が現れきたりしなり。」と修行の経過を以上の如く述べられた。

教主は
「円海の如く神を知らざる者が種々様々の難行苦行を重ね,そして神を知るに至る。是等は習慣性法力の積み重ねたる結果なるが故にいわゆる信仰の力によって望みは達せられたるにて偉人というにあらず,熱心なる信仰者なりと云うの他なからん。」と円海大師の信仰の念厚きを賞せられているのである。



昭和二十一年の春,円海大師は百八十歳の高齢にてチベットの高山にて昇天された。その時の様を未知日記には

「円海は召しだされ出現し来たりし時,己が肉体を土中に埋めてそして魂のみ上昇し来たりしと聞かさるれば世人は如何に考うるや。円海は自殺したりと考うる人は多かるべし。」と記され又「円海の如く天界より召されて己が肉体を地中に葬り,そして脱魂して天界に来たりたる如き業をなす事を得るなり。
是等は法力行力すべて正かりし故なり。真の聖者と云うは円海の如きを指すなり。」と記され,現在の円海大師は
序でに,今日尚世界各国の深山幽谷に隠れて行ぜられる行者達について円海大師の説明をここに引用することは無益の業ではあるまいと思う。


「ところで慈音さん,慈音さんに少し話して上げたいことがあります。其れは他でもありません。今も慈音さんが私達の修行に対して色々不審をしておられたようぢゃから今日は是に対して少しお話をしてあげたいと思いますのぢゃ。
普通の人から見ると成るほど馬鹿馬鹿しく見えるでしょう。又心有る人から見れば自分さえ修行すれば其れでよいと思うのが行者だとすれば利己主義だと思うのでしょう。又深山幽谷にもぐりこんで人交わりもせず,獣類と生活を共にするは原始時代の野蛮人で,彼らは如何なる修行して天空を駆け回る人間になったからといって,其は余り手柄にもなるまいに何のための修行をするのだろうと嗤う人もあるだろうと思いますのぢや。
そこで是等のことについて私は言い訳して,貴下方の不審をはらそうなどとの考えは少しも在りません。ぢゃが是等の不審は他の人とは違い,慈音さんのように貴尊方や教主寛大の指導を受けておられる人に話して上げて,少しでも修行の参考にして貰いたいと考えてお話する訳ですから其の心持ちで聞いて下さい。
元来,私達の仲間といってはおかしいがまあ同志者とでも云いますか,其れが世界(地球)中大抵の国に散在しています。然し,昔と違い現在は余程其の数も少なくなっていますが其れでも小一万は算えられましょう。えっ!そんなにあるかって,ハァハァありますとも,世界中ですもの狭いようでも小一万位が散らばっていては何処に居るかはしれません。其れに人の往来絶えて無き深山高山ですもの。わかる筈はありません。其れに人に会うことを好みませんから直ぐ隠れてしまったり,又巧みな業でみだりに行場へは寄せつけませんからなあー
其れにみだりに人を入山せしむるを許しません。其れだから行場,道場は容易に見っかるものではありません。行者の中には種々な人が来ますが,修行半途にも至らず下山する者が多いこと滴水の行(未知日記一巻念力集を参照)の話の時に申した通りじゃが,修行者でなく隠遁生活をしておる人も可成り居りましたが,今は極僅少ですけれど残っております。
ところで此の隠遁者と行者と混同せられて誤解される点は少なくないのぢゃ。
隠遁者のなかでも可成り修行の出来た者があって,往来の人に対して自慢で種々な魔法を使って驚かすものぢゃから其れを行者と誤解するので修行者は迷惑する事もあります。
然しこれらは初心者で,少し行の出来た者には何の影響もありません。
そんなことは兎も角,入山者として第一要点は「己の欲する一切の欲望を放棄


「現に円海のミキョウは多くの魂を預かりて,或いは天界に,或いは下界にそれぞれ運び居る任務をなしおりて,分時も怠らず忙しく働き居るなり。」と業は魂眼より魄眼,魄眼より霊眼と三気一体化の途上にあって,己の体験の正邪を確かめる第三者的決め手に困って迷い悩んだして,一切衆生を救わんことの望みを立願せよ」と是がもっとも大切な法則です。慈音さん,解りますかな。自分というものから離脱して,人類ばかりではなく一切の衆生を救はん。否,否一切衆生の為に犠牲となろう。犠牲にしていただこうと云ふ大願を立てて入山を許してくれと誓詞誓文を納むるのです。
それで入山を許されるかというとそうじゃない。これからが難行です。
先ず一週間の断食をさせて其れが済むと,翌日は弁当を持たせて薪取りにやり,彼が空腹に耐えかねて食事をせんとする時,一人の乞食を遣わして彼の弁当をねだる。是を快く施すと今度は猛獣を遣わして彼の肉体を喰はんとなさしめ,是も恐れず肉体を餌食にさせようとするだけの観念のあるやを試し,其れが通過すると,一人の賊を遣わし剣を彼が胸先に突きつけて生肝をとらんとなさしむる如き数々の試験を行いて,其の全部が通って始めて入山が許されるのです。
慈音さん如何ぢやな。貴下も一つやってみる気はありませんかな。まあ想像しても見なされ。想像するだけでも身の毛がよだつぢやありませんかな。其れのみぢやない。其れから先の修行がとても貴下方の夢想だに出来ない厳しい法則ぢや。このような詰まらぬ事を何の為にするのかとさえ考えることは二度や三度ではありません。山を離れる者の多いのも推して知られましょう。是は無理じやないと思うでしょう。然し是位の修業で挫折するようでは一切衆生の救済などとは思いもよらぬことです。だから歯を喰い縛って,肉を割き,骨を刻って修行する他はありませんのぢや。人間の煩悩は是位しなくては抑圧は出来ぬものを。慈音さん等は仕合はせぢや。貴尊寛大の慈悲で日々少しずつでも取り除かれて行くのは何と有り難い事でしょう。しっかり励みなされや。
其れから私は今に肉体を娑婆に置いて居ますので,是も不思議に思いましょう。
成る程,往生際の悪いと思うのも無理はありませんが,是には深い訳があります。其処でその理由について申し訳と云うでもないが説明しましょう。決して命が惜しいのでもなければ,娑婆に未練があってでもありません。又,不老不死の勤行をするのでもありません。
先刻も話した通り一切衆生の為と云いますと,貴下方は思いになりましょう。郷に居て人交はりをしていてさえ人類の為に尽くされないのに,深山幽谷に遁世していて一切衆生の為などとは如何しても合点がゆかぬ。又そんな事が如何なる通力自在の技があるとも学説から説明の余地は出来ぬと云ふだろうけれど其れはなにも知らない人の考えで,事実は出来るのです。其れなればこそ修行するのぢや。不思議な魔法使いなろうとてこんな苦労はせぬ筈ですぞ。
私達の同志の大半は縁の下の力持ちを喜んでやっておりますのぢや。娑婆に住む多くの人間はおろか,鳥獣虫魚のことまで救いの手をさしのべておりますのぢや。朝起きてから夜眠るまで総ての行を衆生のため祷りつづけて休む隙とてありません。処が中に隠遁して種々な魔法を会得した輩が是を邪魔するのがなかなか多いのです。是等の障碍を除去するには余程の技量が必要ですから有力な行者を要請しなければなりません。そこで私達は今少し生の養成に務めなければならぬと云う訳なんです。
それはもう天界に昇らして頂いてからでも貴尊方のようになれば下界におると同様ぢやが,私等にはまだまだそれは許されません。そこで余儀なく肉体を下界に置いて居る訳です。お笑い下さるなや。私も決して修行を怠っておりませんぞな。
オー,何ですって?  衆生を救うとはどんな行動するのかってかな ?
貴下はいま日本政府から県へ町村へとそれぞれの役所を通じて命令を下して居るのを知っているでしょう。其れが電報だとか電話だとか,或いは文書とか或いは人を遣わすとかするでしょう。此の方法に似たことを私どもの同志でもやります。
これを名付けて大智順歩の法と云って,即ち大なる智慧に従いて進むの意味なんです。丁度電話や電報文書の通信に等しいものです。是によって行者同志の連絡は充分に果たされ,論議も充分に交わす事が出来て不便を感ずることは決してありません。座していて千里の遠きも一室にあると同様なんですからな。其処で議論が一決しますと是を天界に報告して,是非の批判を仰ぎます。是と仰せられれば直ちに実行に移し,非との命なれば直ちに撤回します。
其れぢやによって世界の人心に及ぼす影響には種々様々の変化を来たし向上を計って居るのですが,ここに不逞の行者(隠遁者)が邪魔をしてその向上発展を妨げるので是を排撃するためにはなかなか一通りの苦労ぢやありません。
兎に角人間は肉体の安楽を求めておりますから,どうしても其の方に傾きやすいものですから其処を狙う不逞の偽善者には苦しめられますぢや。慈音さんも気を付けなければなりませんぞ。貴下の方にも手は伸びておりますから油断はなりません。」と




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