覚者慈音333

光明論 上巻 巻の一
                その17
  
                 セイキヨウ貴尊 講述


 我は慌て者にて何度も失敗を重ぬるなりと云ひながら改めざる人多きものなり。雷光火花の物を照す如く、すべてを観察するは正しからずと云ふは、汝等にもよく諒解して居ながら是を改むるを得ざるは何故なるかを究めて工夫に工夫を重ねざるべからず。人間に修養々々と己の智識の程度をたかめ見聞を広くして、学徳を修めながら事実その智慧その学問に依て行ひ形の上に現はし居る人は稀にして物知りに終はるは多し。物知りにては書棚に飾る書物に等く、書籍ならば誤りは却って少なけれども物知りには誤聞誤見は却って多かるべし。されば学ぶとは行為にして行はざる学びは反故に等し。汝等知りたる事は実行に移し、然して実行し能はぬものは捨っべし。紙屑のみ多くして整頓しあらざれば、大切なる書物を引き出すに却って不便なり。兎角人は理屈に走りて行はず又行ひをなさんとせず、無駄なる月日を送り居て忙しくして行ふ暇無しと云ふ。事実忙しきかと見れば無用の時間を空費しながら、さて忙がしさうに表面をつくらひ居るを我は知れ居れり。人の眼はかすむとも汝等己の眼すらかすむを得ざるに、まして神の眼をかすむるを得べきか。表面の信仰とは是等を云ふなり。真実の信仰をなさん或は信仰を得んと欲せば、忙しきとか時間なしとかの言葉を口にすべきにあらず。斯る人は信仰に入らん事を望まずして唯参考に話を聞くのみの人なり。斯る人の信仰に入り度しなど云ふは世辞言葉なるべし。日々の業を修養修業として怠らず不屈不撓の心がけにて行はば空しく時間を空費するものにあらず。然して真の信仰は得らるるなり。なしたけれど我には及ばじと諦めの如き、謙遜とも悲観ともつかぬ言葉を口にする輩は多し。そは人間の反故なり。物の屑なり。なしてならざる事やあらん。我も人なりと考へよ。喰はずして味を知るは難く喰はずして腹を充たすことは得ざるべし。喰ひて味の可否を論ぜよと我は勧むのみ。軽はずみの信仰ならば止めよ。己を害するのみにあらず。他人をも損ふ結果とならん。
 教主の言葉に、「魂を喚び起こすことをせざるなり」とあるは、汝等よくよく耳を傾けよ。せざると得ざるとの相違は非常に意味と結果を異にす。我は喚び起こす得ずと我は思ひたり。然るに教主仰せらるるに如何なる無知蒙昧の者なりともすべて魂の光を有せざるか。光あらば輝きあり。然るを早合点する者は己の襖を閉めて光をさへぎり、開きて光明を見んとせざるに等ければせざると云ひたり。得ざると云はばならずを意味す。早合点者とて求むる法に従ひて得ずと云ふことあらんやと仰せられたり。是はせざる故なり。なせばなるものなりとの教へを説かれたる注意にはほとほと感心の外なし。汝等有難く聞けよ。如何に修養なき人と雖も心の底より非を悟り改むるに決してならずと云ふことなく、なせば必ずなるものぞかし。故に教主はせざるなりと教へられたり。「知らぬとて恥にはならぬことまでも、知った顔して、赤恥をかく」と云へる如く、早合点者は兎角智慧に誇るより来る優越感が却って修業の邪魔となるに心して、斯る思ひ至らば反省を重ねて真の魂に接する喜悦に廻り会はんことを願ふべし。教主の申されし魂とは霊光を指されたるなり。霊光に浴せざれば真の信仰、真の智慧は得られざるなり。一般世の中の習慣には神の道に反すること多く其が義理人情と称へて神の道と別個の感を抱かしむるもの多きために、信仰と云へば特殊の行を行ふこと、人道は人道、神道は神道と思ひあやまりて修養修業なし居るを見る。是まことに遺憾に思ふなり。人道は神道なればなり。我、是より教主の命をかしこみて教主の意のある処を汝等に説かんとす。汝等よくよく聞きさとりて光明の大意をさとりて修養すべし。


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