覚者慈音331

光明論 上巻 巻の一
                その15
  
                 セイキヨウ貴尊 講述



 例へば車内等にて未知の人が我顔を見て笑いしとか、我を睨みたれば我、又ねめ返へしやりたりとか、訳も無き事より争闘を惹起すなどの事をよく見受くるは是火花の光明なり。身装粗末なる人が高級車に乗り込み居らば、彼は室を間違へたるにはあらずやなどと訳も無きことにさし出で、却って己赤面するなどは寒心に堪えず。斯る人は一方に味方を得れば一方に仇を生ずる依って加減すれば零となりて、何等得る処なく残るものは罪悪のみ。何となれば斯る人は表面を流るる水の如くにして池底の泥土を清除することを得ざればなり。故に教主は早合点なすものは道の真を明らむることの不可能なる事を教へられたるなり。


早合点なすものは真を究むる道を知らず。表面の信仰に終れば早呑込み
 早合点者は潜在せる魂をよびをこすことをせざるなり


 さて信仰は表面のみにて唯何事をも無条件に取り入れて信ずれば、却って結果は真実を握ることを得ざること多し。さりながら物を疑はざる人は善人なり。欺かるるとも信ずべし。欺く者に罪あればなり。是は世の中の事柄に対して形ある光を指したるなり。さりながら神の道をあやまち信ずれば迷はさるる恐れあるに依て是は汝の親なる霊に聞きて信ずべし。「欺くと知りつつめぐむ親心」とか云へるを聞く。是等の慈悲は別として放蕩息子は母を欺きて金品を求むる時、母は欺かるるを知りつつも与ゆるは是愛なり。然らば罪の報は子に帰するは云ふ迄もなし。汝等は云ふならん。此母は一を知りて二を知らぬなり。真実の愛は恵まずば罪とはならぬにてはあらずや。めぐむは動物愛にして人間愛にあらずと。尤もなることなり。然れども動物愛あるに依て母の力は強きなり。女は弱く母は強しと云ふも、此動物愛のあればこそ、放蕩息子も最後に悔ひ改めをなさしむる動力となるなり。





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