覚者慈音330 光明論 上巻 巻の一 日本の古代に生きたセイキョウ貴尊の実話

光明論 上巻 巻の一
                その15
  
                 セイキヨウ貴尊 講述


 下記に記す道話は、日本の古代、セイキョウ貴尊が修業のため山に入山された折りに、師の坊より教えられた実話です。時代はおそらく聖徳太子以前の神代の時代、慈音老師が信仰に迷いを持たれた時に貴尊のかってのお姿を見せてもらったそうです。その姿がまさに神代の時代の服装をされていたという。
セイキョウとは職位を意味し、正式にこのセイキョウ貴尊をお呼びするにはコ-ケン.ムイ.リョウジャ.セイキュウ貴尊と心の中で呼ぶ必要があります。この大宇宙にはセイキョウと呼ばれる天使の方は数多く居られ、現在はセイキョウの職位の更に一つ上の世界で働かれておられます。この貴尊がまだミキョウの職位にあったのは今から50年前。慈音師の母親が浮住界で彷徨っておられる時、救いの手を伸ばされたのが抑もの始まりになります。この未知日記の第一巻目はミキョウ貴尊(現在のセイキョウ貴尊)が著述されておられます。
僕たちは唯、幼児の如く、貴尊にすべてを委ねて全託すればいいのです。
貴尊は未知日記一巻目の冒頭に下記の如く述べられて居られています。是が未知日記の最初の言葉になります。

我、汝等を誘導して共に手を携へ以て正道を進まんとす。
されば特に心を用いて神語を口訳して、汝等が日常使用せる
言々句々を撰び、肉眼にもあれ、又は肉耳にもあれ、容易に悟り
得る文章を使用せり。また此書は我修得して究めたる事実なれば
疑義をさしはさむ事なく、一路邁進して速やかに法の妙を究むべし


ここから七年余りの歳月かけ、あの膨大な未知日記の書が完成されました。


セイキョウ貴尊曰く
 或人浮世の姿の偽り多きを厭ひて遁世なさんと山に入り、草のいほりを結びて日夜山の神秘を楽み居たりしに、或夜、道に迷へる旅人来りて一夜の宿を所望せられたれば快く迎へ入れたり。然して彼と四方山の話にふけり居りたるが、旅人曰く、主人は何を厭ひいて山に入りしや。主人曰く、浮世は余りに汚れたれば見るに忍びず、聞くに堪えざればなり。客、曰く、汝は美はしきか。主、曰く、我も汚れたればその汚れを山の神秘にて洗はんが為なり。客、曰く、主は余りに勝手気儘なる人なり。斯る思ひにて遁世すとも何日かは汚れのぬぐはるべき。佐程山を愛するならば其にもまして浮世を愛して今一度浮世を見なほさば如何に?主人答へず。沈思黙考なすこと小時、軈て徐(おもむろ)に口を開きて曰く、我、遁世せしは誤と云ふか。客曰く、然り。汝の如く自らを賢者と思ふ愚者を入るれば山の汚れなり。よくよく身を省みて速かに山を下らば可ならんと。主、怒りて汝は何者ぞ。我に宿を求めながら礼儀を弁へざる愚者ならざるかと、叱咤なしたるに、彼笑ひて曰く、主人よ、心をしずめて深く思ひを廻らし見るべし。汝は他の醜きを見て、自らの醜きを見ざるは今の言葉によりて明白なり。汝は浮世の面(おもて)のみを見て内面を見る眼識あらざるなり。我、汝に宿をかりしに報いんがための志を汝は仇に聞くに徴しても汝の心のすさび居れるにてはあらざるか。是によって見るも汝の遁世は唯閑居するにすぎず。斯る考へを捨てて山を下れ。されど閑居を望むならば、汝が家の片隅に居して何かの有益なる読書にてもなさば修養の度を高くすべしと。ここに至って凡俗ならぬ主人は眼を閉ぢて聞き居たりしが、軈て眼を開らきて旅人に向ひて曰く、客人よ汝は唯人にてはよもあるまじ。我、もし汝来らずば埋木となりて此山に屍を捨つる愚を敢へてしたらん。仰ぎ願はくば、我を汝の門に入れて正しき人間に導きて浮世の人の為に役立しめよとひたすら懇願して門下に加へられたり。是ぞ、他人(よそびと)にあらず、我恩師なり。然して彼の客人は我の恩師の師となりたる人なり。
 大凡世の中には世を厭ひて遁世を企てて出家する者、或は修道院に生涯を神に献げんと企つる者少なからず。されど其多くは皆小人閑居するにすぎざるなり。浮世は塵埃(じんあい)多し。汝等日々朝夕払へど尽きぬ座敷の塵、されど人は積れば払ひ、積れば払ひつつあるにてはあらざるか。人間と云ふ塵埃は消えては現はれ、現はれては消え払へど尽きざるなり。汝もその塵の一片ならずや」


テッシン講録第二の巻より転記

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