覚者慈音318

光明論 上巻 巻の一
                その6

  
                 セイキヨウ貴尊 講述


 或富豪の登山家最後に残せし霊山に登らんとせしに、其家の召使ひの老翁是非に供をと願ふに、如何に止むるも是非に是非にと云ふ。漸くに承知してわざと荷物を重くして登山し、道に老翁の苦むを見て心密かに悦に入り居りたり。漸くにして老翁は歯をかみしめ汗を流しながらも不撓唯頂上の神に詣でたき一心にて、九合目に辿り着きたり。翌朝は頂上なれば宿に荷物をあづけて主従二人身も軽く出立ちしが、老翁の平然たるにひき換え、若き主人は苦みて進むを得ず。ここに於て主人は思へらく我、老翁を苦めて喜びし罪の報ならんと深く悔いて老翁に謝したるに、不思議や足も軽くなりて頂上の宮に参ずるを得たりと云へるなり。この道話を蝋燭線香にたとふれば汝等も諒解なしたるならん。
 繁栄を誇りし蝋燭時代は光の点に於て相違ありたるも、さて九合目と云ふ臨終に至って老翁の如く召し使はるる身の唯後生を願ふ心は、すべてに軽けれども明らめなき主人の足は重し。いよいよ線香に変れば老若の隔たりなく煙と化して空に昇るに老者は嬉々として、若者は苦悶しての相違となる。老者の線香には悔ひなく若者の線香には未練ありと云へる如き相違ある事も見のがすこと勿れ。教主が特に蝋燭を例とせられしは仏教国なる汝等に諒解早からしめん為なるべし。
「此の他種々様々の事柄を燈燭薫香に託して考慮せよ 然して
 一本の燭に勝れる任務を行ひ居るか。又一本の線香に勝る善行をつみあるか
 或は悪臭を放つ不正の線香となり居らざるかを 

      朝夕香華燈燭を捧ぐる時必ず反省せよ 」
 汝等この懇篤なる教へを唯有難しとのみ聞き終る勿れ。今後に於てこの例が如何に重要なりしかを思ひ至るに及びて真の感謝となるなり。是は神の光明をうけて人間の光明をうけ、命終りて又或霊界の光明に入り然して更に進む、所謂光明より光明へ進む順路の参考として示めされたるなり。教主としては威厳を捨て俗界の汝等に和し給ふ御心に、我も深く奉謝しつつあるなり。汝等拝せよ。
  「形を有する光明は表面を照らすと雖も裏面に影を止む」と、仰せられたり。
 大凡汝等が住める下界は相対なるに依って、すべて表裏ありて道理も二種に別るること多し。日向と云へば蔭はと聞く。善と云へば悪はと反問す。汝等人に対しても心に無きお世辞と称する言葉を用いて平然たるのみならず、斯くせざれば世渡りは難しと云ひて、我児を教育するにも強いて是を行はしめんが為に汲々たり。諂ひはなすべからずと教ゆるかと思へば、舌の根の乾かぬうたに是は人を喜ばせる世辞言葉なりと虚偽を敢てして憚らず。人も唯敢て意とせざるは不思議ならずや。教主の説き給へる裏面に影を止むとはこの理なり。影とは何ぞ。太陽は表面を明るくし裏面を暗くするを汝等は喜びとなすや。然して己の影を省みざるや。果して太陽は真の汝の影を照しあるを汝は見るや。朝夕は汝の影を長くして数倍ならしめ日中は短くなす。是真の影かはた偽りの影なるか。虚偽の影ならば太陽は虚偽者(いっわりもの)なるべく、真ならば汝は虚偽者なるべし。此事よりすべてを観察し見よ。世辞の言葉を汝は人にをくる。人は是を悪き感じを抱か抱かざるべし。世辞と知りつつ満足す。然しながら此喜びは魂魄に通ぜざれば長からず。須叟(しゅゆ)にして消滅す。世辞を話せし汝の心の影は偽はりの影なり。されど一時にても他に快感を与へしと思へる影ならばさして罪とは思はず、長き影にもあらざれば魂魄より出でたる言葉ならず、故に須臾にして消えん。
 教主の宣(のたまは)せられたる真意はここにあり。汝等は我心にかばかりの事と軽視したる行ひの印象は案外大きくなり居る事は、恰も朝夕に見る太陽の照らす影の如く大きくなれる事あらん。すべては空なり。空是光明と知るべし。眼より受くる光明、耳より或は鼻より或は口より、或は皮膚よりすべては光明なれば、慎まざれば禍を招かん。叉幸も来らん。されど禍福は形ある光明にあり、形なき光明には斯る両道相対の働きあることなし。



×

非ログインユーザーとして返信する

あと 2000文字

※は必須項目です。