覚者慈音317

光明論 上巻 巻の一
                その5
  
                 セイキヨウ貴尊 講述



「一本の花、一椀の飯(はん)、一滴の水悉く光明ならざるはなし」
花はもとより色にして光明と云ふも頷かるれど、飯、水に至っては汝等には奇異の感に眉を寄するならん。されど飯(はん)と水は人間のみならず、動物には大切なる光明なり。飯とは単に米を指したるにあらず。米ならば飯(いい)とか(めし)とか仰せらるるをはんと申されしは、すべてを養ふ糧のことにて総称してはんと仰せられたるなり。。水は動物植物にも大切なる養分にして、是又光明なり。養ふ力は即ち光明なりと知るべし。恵も光明なり。故にすべて光明ならざるは無しと仰せられたるなり。
 「汝等は自らの教訓のために神を祭祀(まつる)如く思惟するに依って
 心の汚れは清浄されざるなり」

 如何に慈愛あふれたる教訓ならずや。汝等は朝夕神を祀るに燈燭香華茶菓珍種飯水等を捧げ居るは真に美はしき心構へ行動にして賞すべきなれども、所謂是に依って何かの報酬を神より求めんと欲し、或は神の為に神を祀り居る輩多きことを、教主は知り給へり。斯ることは偶像崇拝の信仰なり。先に説かれし如く己の心を磨かんがための神祀りは美はしけれど、表面のみ美はしくして裏面に内面の汚れを美はしくせざれば真の信仰ならず。真の信仰ならざれば清からず。清からざる光明は汚れを増すのみ。捧げし水の如く澄せよ。捧げし飯の如く洗ひ清めよ。捧げし香の如く香を清くし、すべてを柔げ捧げし花の如く、色を清くして装ひをこらさぬ天分のままを現はしてこそ、汝の心は清かるべし。斯くあらしめんことを日々神に誓ひての捧げものならずゃ。然して此捧げものの如くに我心を清め給へと願ふにあらずや。一本の燈燭は即ち汝の肉体ある今日ならずや。一本の線香は肉体なき明日の姿ならずや。一椀の飯は汝等生活に要する恵の糧ならずや。又日々生存の任務ならずや。一滴の水、是即ち神の愛ならずや。一本の花、其は天よりうけし使命を果して開かせたる汝が心の精華ならずや。是を思ひ彼を思ふ時、汝等の捧げるすべては汝自らの修養すべき教訓なることを知り得たるならん。
 「燈燭細小なりと雖も明光赫々たるあり。燭太く大なりとも輝き鈍きあり
   人間にもこの理あらん。線香にも良否あり。人にも善悪あり」
と仰せられたり。
この諺に対しては汝等に於ても既に諒解せしならんと思へど、汝等にはいささか心つかざる処を補はん。人間のうちには身卑賤にして無智蒙昧なるに不拘、心清くして行正しく明光を放つあり。富貴にして然も学才兼備なるに不拘、心正からず行為悪くして燭光を鈍らすあり。又小児にして神童と云はるるあり。世を早く去るとも偉大なる貢献を残すもあり。是に反して年たけても世に指弾さるるもあり。所謂百才の童子三才の翁の比喩の如く、線香の例も同様なれど是にも亦異なる意味を有す。ここに一例をあげて説明の資料とせん。


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